定年後を楽しく トップ自転車で東海道トップ

東海道、自転車の旅

~千葉から京都・三条大橋へ~

東海道をゆく

十日目

 気ままな楽しみでやっている自転車旅にすぎないのに、自分で何か達成感を求めていて、何もなく終わったことに、少しさびしい。江戸時代は、わずか150年ほど前のこと、街道に時代を感じられるものがナニカ発見できるかと期待した。やはりというか、意外にもと言うか、どこかにソレを感じるものがあったのが収穫か。

草津→大津→京:26.0km

草津 大津 京 まで26.0km 

 大津宿へ ビジネスホテルの外へ出るとひんやりとした空気、気持ちが引き締まる。裏に回り昨夕、自転車を置いた場所へ。毎朝の確認も今日で終わりだ。喫茶室がオープンするのを待つ。モーニングサービスを食べ終え出発。

 矢橋道 JR草津駅前のアーケードの商店街を通勤の人を避けながら、ゆっくり進む。田中七左衣衛門本陣の前を通り立木神社を過ぎ、店の軒下に大きな道標を見て立ち止まる。東海道から琵琶湖へ向かう矢橋道を示している。東湖岸の矢橋から船で対岸の大津へ渡る。旅人は歩くか、船で楽をとるか、迷ったのではないか。

大津道標 道標には「右 やばせ道 古連(これ)より廿五丁大津船わ多し」とある

 国道1号に出て横断する。しばらく進みJR東海道線の瀬田駅前に出る道を渡ると、白地に赤字の「一里塚」の看板を見つける。小さな公園に野路の一里塚の石碑が置かれていた。その先を行くと月輪立場跡の碑を見る。立場は、規模の小さな茶屋など休みどころのある集落。規模が大きくなると間の宿(あいのしゅく)といった。ここは大津市内だ。53番目の宿場、大津宿が直ぐそこになった。

 瀬田の唐橋 ほゞ国道1号線に沿った道を走り、再び車の多い国道に合流、緩い坂を下って行くと瀬田の唐橋に出た。なんだか懐かしい。琵琶湖を自転車で一周した時以来3年ぶり。この橋が起点・終点になっていたので、その時はこの橋を目指した。

 この橋には、伝説や戦いで焼け落ちた歴史物語がある。今は多くの車が行き来するなかで、歴史の現場にいるのだと、たのしくなる。橋をわたり京阪とJRの石山駅まえの混雑した道を抜ける。

 膳所の城下町 城下に入っていることが、勢多口総門跡の碑を見て分かった。膳所城跡は琵琶湖畔にあり、公園になっている。道は、分かりづらく迷う。案内の石柱が角々にあるようだが見落とす。

 人家の玄関先に石柱が立つ。膳所城勢多口総門跡と刻まれている。

 多い寺社 当時の東海道は琵琶湖岸に沿っていたそうで、近年の埋め立てで水辺が遠くなっているのだ。
 神社とお寺が多い。京阪・石山坂本線を頼りに進む。北総門跡を過ぎると、義仲寺に出会う。その先の商店街の街路灯に「東海道」の小さな看板が掲げられ、ここが街道筋だと分かり助かる。

 膳所城址公園前の膳所神社(正面)。男女を問わず東海道宿場を訪ねるシニアを多く見かけた。

 大津宿 商店街を抜けると広い国道に出て、右へ逢坂越え、左は浜大津駅へ下る道。この交差点は、かつての札の辻跡で宿場の中心だったという。京と江戸との街道、北国への湖上交通の要衝である大津宿は、行き来する人でにぎわいを見せたそうだ。
 右へゆるい坂を進みはじめると本陣跡。さらにユルユルと上って行く。国道1号へ合流する。

 三条大橋へ 京阪・京津線が並行して通り、前面には名神高速道路が高架橋で高くそびえる。その下をのろのろと進む。まさに交通の要衝で山が迫っている。東海道線は逢坂山の下をトンネルで抜けているが、かつてのトンネルが忘れ去られて崖際にあった。大正10年8月に付け替えで廃線になった東海道下り線で延長は665m、京都側へ抜ける。1年8ヶ月をかけ、わが国初の技術で明治13年6月(1880年)に完成した。鉄道記念物となっている。
 蝉丸神社上社の先に逢坂の関跡の碑を見る。これを過ぎると山科だ。

 旧逢坂山ずい道東口が山際にあり鉄道記念物になっている。

 山科を過ぎる 国道から左へ旧道に入ると「山科の追分」の石碑を見る。右に国道が並行し、さらに京阪・京津線が沿う。山科駅を右下に見て進むと三条通りに合流した。東海道線のガード下を抜け京阪・御陵駅前へ。ここは天智天皇陵への道がある。そこを過ぎ少し上り坂になり粟田口へ。広く気持ちの良い国道が下りになり、きれいな蹴上浄水場の丸い沈澱池を左手に見て下って行く。

 三条大橋 蹴上から南禅寺や平安神宮などの近くを通り繁華な店やビル・マンションのなかを三条大橋東詰めに着く。12時になっていた。鴨川を渡り西詰の弥次喜多像を見て自転車旅を終える。

 京都駅から 木屋町で荷物を宅配便で送る手配を済ませ、京都駅へ。駅前の駐輪場に自転車を預け、地下街で昼飯を済ませ、切符を買う。再び自転車を受け取り、輪行袋に詰め、担いで新幹線に飛び乗る。夕方7時前に帰宅。

 寛政10年(1798年)に建てられ、浮世絵にも描かれている古い道標。琵琶湖を船で渡る道への分岐点がここ。

 野路一里塚(上北池公園)。これだけ目立つ看板があれば見落とせない。かつての位置より30mの移動とある

 立場跡。月輪池(上・下二つ)脇に建つ。池にうつる月が美しい処だったようだ。旅人が感嘆したという。

 瀬田の唐橋を渡り西詰から振り返る。歴史に登場するこの橋は、今は鉄とコンクリート。焼け落ちることはない。

 義仲寺。木曽義仲と芭蕉の墓があるという。

 札の辻跡。交差点の南西角に案内板と横に道路元標。

 大津宿本陣跡。本陣が二つ、脇本陣一つ置かれていた。横の石碑は明治天皇の行幸を記念したもの。

 逢坂山関所跡の碑が常夜灯と並ぶ。古くは京への入口とし関所が置かれた。百人一首の蝉丸の一首が浮かぶ。

 伏見街道との分岐点に「山科の追分」。右は京都へ。左へは大坂道で伏見、淀、枚方、守口の四つの宿場をたどり大阪・高麗橋へ約53kの道のり。碑に「柳は緑花は紅、みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」と彫られている。複製でもとの碑は琵琶湖文化会館に移されているという。

 旅の終点の京三条大橋。青銅の擬宝珠がユーモラスだ。橋を渡って、東方の来た道を振り返る。

旅を終えて

 東海道をはじめ街道歩きがブームみたいだ。私も興味を持つ一人。訪ねてみたい、と常々思う。定年後の持て余した時間があるとはいえ、街道を歩くことは大変、娯楽として楽に出来ること、それは自転車だ。移動の中で旧東海道筋の風景を楽しめた。何かを求めるわけでも無く、無為に走り終えた。ただ東海道を走り感じたことは、いつか必ず来るであろう地震と津波のことだ。古から、いかに街道筋でその影響を受けてきたかがよく分かった。宿場が移動し街道筋がつけ替えられている。度々被害を受けているのだ。朝日新聞土曜版に磯田道史さん連載の「備える歴史学」(2013-09現在)を読んで全く思いを同じくする。