東海道をゆく
六日目
京都までの行程の半ばを過ぎた。街道は比較的山坂が少なく平均的な距離を稼ぐことができ豊橋市に達した。ほゞ遠州灘を左手に見ての走行で、町々で海抜5mなどの標示を目にした。東日本大震災と思い合わせ、いつの日かくる震災を無事にやり過ごしてほしいと思う。かつて新居関所は津波で三度も移動している。
掛川→袋井→見付→浜松→舞阪→新居→白須賀→二川→吉田:66.7km
袋井 見付 浜松 舞阪まで42.5km
掛川をあとに ビジネスホテルの朝は、ロビーがビジネスマンで賑わう。このホテルは朝食があるので、7時からのオープンを待って宿泊客がうろつく。朝食付きは助かる。
宿を出て旧東海道へ向かい大池一里塚を確認する。進むと松並木があらわれる。間(あい)の宿、原川に入っていて、つづいて途切れていた松並木が再び出現する。この後も途切れとぎれにではあるが頻繁に松並木が街道にでてきた。
どまん中、袋井へ 道路の片側に土塁をもつ松並木があらわれ袋井に入っていた。袋井宿は、東海道53宿のちょうど真ん中の27番目の宿場。小学校の校門に「どまん中 東小学校」の看板が掲げられていた。その袋井東小学校の敷地に一里塚が復元されている。その先に袋井宿の東の入口跡があった。
かつての宿場を紹介した案内板が設置され、石碑で「これより袋井宿」と刻まれている。
街道を進み「木原」の標識を過ぎて見付宿へ向かう。
かつて三方ケ原合戦の前哨戦があった木原畷古戦場跡の案内標識
見付へ ゆるい坂の国道を上ると右側の崖に「遠州鈴ヶ森」の看板。昔の刑場跡だそうで、日本左衛門が獄門にかけられたという。
国道から脇道へ入り、急坂を下ると愛宕神社への階段が脇にある見付宿の木戸跡の標識。江戸方の入口で、見付の宿場に入る。
整備された街並み 街並みがきれいに整備され、観光化された建物が揃っている。問屋場跡には当時の作りを模した建物が造られ、JA遠州中央支店が入っていた。その玄関前に宿場全体の案内板が置かれ、通りも「宿場通り」の名が付けられている。
本陣跡や木戸跡の標識が目につくように配置され、訪れる観光客に興味をもたせるように配慮されている。
見付は宿場の雰囲気を大切に整備されている。宿場通り。
見付宿の上方の出入り口跡を示す木戸跡の標識がお店の前に設置。
天竜川をわたり浜松へ 見付宿を出て街道を進むと天竜川に行きあたる。江戸時代は天竜川は船で渡った。
明治7年(1874年)に小舟を並べた舟橋ができた。翌々年の9年に「木橋」が完成し昭和の初めまで使われていたそうだ。
ついで鉄の橋である現在の天竜川橋が昭和8年に完成する。
長さ約1キロ弱の橋を渡って浜松宿に入る。
まん中の町 橋を渡ったところが、東海道のちょうど真ん中であることから「中野町」の名が付いたといわれるところに入る。先の袋井宿は27番目で宿場の真ん中だが、ここ中野町は距離的に、江戸へ60里、京都へも60里ということらしい。
天竜川をわたるとかつての木橋舟橋跡を案内する立札と道路元標
繁華な浜松宿場跡 中野町を過ぎ、浜松市内に入る。静岡市に次いで県内第2の商工都市浜松市、かつての宿場周辺は繁華街だ。通りを進むと大手門跡、高札場跡、本陣跡など案内板が掲げられ、跡地の所在を示しているのみで宿場の面影を残していない。本陣の数が6軒もあったという。相当ににぎわいがあったようだ。浜松城跡には、復元した天守閣があり公園になっているというが、寄ることなく先へ進んで行った。
浜松宿は、この案内板のみなのでスーッと通り抜けてしまった。
浜松宿の高札場跡の所在を示す案内板、他に本陣跡など道々に表示
舞阪へ 再び松並木があらわれ、車もほとんど通らず静かな街道だ。舞阪宿に入っていた。
浜名湖を目の前にした舞阪宿の入口は、道の両サイドが石垣。珍しい見付の石垣で今では邪魔になって窮屈そう。真直ぐな宿場通りの先は、浜名湖に突き当たる。広々とした湖面の先に浜名バイパスが浜名大橋で渡っている。逆光でお日様がまぶしい。
宿場の通りには本陣跡、脇本陣などの碑、それと常夜灯の3つがあり、案内標に表示されていた。
浜名湖へ突き当たる 湖岸へ突き当たった所に北雁木跡の碑。当時の船着き場だという。雁木とは段々状に傾斜をつけた石段で、横付した舟に乗りやすいようにしたもの。
昔は淡水湖だった浜名湖が大地震で切れ目が出来て海とつながった。そこを「今切」というそうだ。室町時代(1500年ころ)のことで、以来舟による渡しになったのだ。
舞阪宿3つ目の常夜灯と案内標識
浜名湖の東からJR東海道線と並行して国道1号線が西へ向かう。遠く浜名大橋を見ながら朱塗りの弁天橋をわたり新居宿へ進む。
掛川から袋井に進むと途切れ途切れに松並木がつづく
袋井東小学校の敷地の一部に一里塚(復元)
「どまん中」を掲げる小学校
袋井宿の東の入口跡の標識。27番目にあたることなど宿場の案内が掲示されている
見付宿の江戸方の入口木戸跡
道の両側に見付宿の入口を示す門構え。
「JA」前に見付宿の全体像を紹介する案内板がある
左岸の磐田市から天竜川橋を渡ると浜松市。かつての国道1号から県道に格下げされ、新橋がすぐ上流側にかかっている。昭和8年完成のこの橋は、約920mある
浜松市の大手通りに浜松城大手門跡を示す案内板
舞阪宿へ入る手前に整備された松並木が約700m
見付石垣が出迎えしてくれる。ここが宿場の入口。
舞阪宿の道筋には格子戸の残る家も見かけられ、その中に復元された茗荷屋脇本陣跡があった
舞阪宿の北雁木跡、その後ろのは浜名湖と浜名大橋
弁天島海浜公園の先に浜名大橋
新居 白須賀 二川 吉田まで24.2km
新居へ 国道1号線は大きな浜名湖の南、遠州灘側をJR東海道線などと並行して通っている。この国道を走り、浜名湖の大きさを感じないまま、JR新居町駅前に来ていた。
浜名湖をわたらず、北側を通る道もあり「本坂越え」と呼ばれている。見付宿から御油宿への約58kmで、おもに女性がこの道を利用したという。このため「姫街道」とも呼ばれたという。
駅前を過ぎ、広い敷地に瓦葺の趣のある平屋の建物が目に入る。これが新居関所資料館・新居関所跡・渡船場跡を集めたところだ。見学に行く。
新居関所跡 舞阪宿の渡船場からの旅人は、この新居の関所へ舟に乗ったまま横付された。箱根関所より改めが厳しかったそうだ。
関所として有名なのは箱根だが、ここ新居の関所は、建物がいまも残っている。安政2年(1855年)に建設されたものという。
関所の場所は、地震や津波で移動し、現在の建物は三度目の場所にあたる。
東日本大震災以来、地震と津波に関心がもたれているが、過去にはこうした被害が東海地方であったのだ。さらに四度目が無いことを。そして大災害の記憶がいつまでも薄れていかないようにしたいもの。
新居宿の本陣跡を示す碑と案内
白須賀へ 街道を西へ進むと潮見坂下へ。もともとの白須賀宿は、この坂下にあったという。宝永四年(1707年)の大津波で台地上の現在地へ移った。車2台はすれ違えない細い道が坂上へ伸びている。これがよく聞く潮見坂か、と感慨深く上って行く。
潮見坂 上りに従ってきつくなり自転車を押して行く。振り返ると遠州灘が坂下に見え、なるほど見える、と変に感激する。潮見坂公園跡が上ったところにあり、白須賀宿の説明板がある。ここから見た遠州灘の遠望が広重の絵にあるがこの公園跡からも絵のように見え、東海道の名所になっているのだ。
白須賀宿の本陣跡を示す案内
遠江国の西の端、白須賀 台地の上に移された白須賀宿は、静岡県の西の端にあたる。本陣跡などの石柱を見て街道を進む。掛川でお祭りの準備を見たが秋祭りが街道で始まっていた。鳥居が街道を跨ぎ、ご神灯をともす提灯が家々の軒に吊るされている。
二川宿へ 国道1号線に出て、道路標示に「愛知県」の文字を見る。三河の国へ入ったのだな、と後半の行程がかなり短くなったことを実感する。
二川宿に入ると一里塚の小さな石碑(右下)。建物(川口屋)は案内所
二川宿本陣資料館 庶民の宿である旅籠と、大名の宿である本陣をほぼ完全に改修復元している。とくに本陣は現存2か所のうちの一つという。常設展示があり江戸時代の宿場などの様子を知ることが出来る。豊橋市が平成3年に開館させた。
二川宿 静かな宿場の通りは整備され、本陣資料館を中心に脇本陣や問屋場、高札場跡などの各案内表示があり分かりやすい。来月11月には本陣まつりが、大名行列などの出し物で賑わうそうだ。
二川宿を過ぎると国道1号と合流する。一里塚の碑を国道わきに見つける。「飯村一里塚跡」の文字
吉田へ 日も暮れ始め、5時を過ぎ、明かりが灯されはじめている。街道を進むとJR二川駅前に出て西へ向かう。国道1号に合流し、一里塚を見る。次の吉田宿(豊橋市の中心部)まで一里ほどと近い。
今夜の宿を探すが、なかなか決まらない。6軒目でやっとJR豊橋駅前付近に決まった。今日は土曜日で、8日が体育の日なので3連休になり、宿が込んでいるのだ。
うす暗くなって秋葉山常夜灯のある東八町という路面電車の停留所にたどり着いた。
新居関跡には番所と船着き場(手前石垣)、資料館
番所の中に取り調べの役人の人形が並ぶ
新居宿のかつての旅籠を復元した紀伊国屋資料館
潮見坂は、西へ進んできた街道から直角に右へ入る
潮見坂の途中から見た遠州灘
潮見坂をのぼり、白須賀宿の台地へ。潮見坂公園跡から見た遠州灘は、広重の絵のように変わってはいない
白須賀宿から二川宿への街道途中、秋祭りの鳥居
遠江の国から三河国に入る。一里山の一里塚跡
二川宿の本陣資料館に復元された「旅籠屋清明屋」(手前)とその先に本陣の建物が並ぶ
二川宿本陣の門。明治3年の廃止まで馬場家が約60年間、本陣職を勤め、いまも当時の姿を残すという
二川宿本陣資料館の出入り口