東海道をゆく
二日目
京急川崎駅前の宿を出て走りだすが、この日もなかなか前へ進まない。旧道を探すのに時間を取られ、気ばかり焦りる。宿場の名残を示す跡地や標識を見逃してしまう。藤沢に入ってやっと順調に走り始めた感がする。湘南の国道1号を急ぐ。国府津で、黒い雲から雨がパラつき始めた。急ぎ小田原に入り駅近くに宿泊。
川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚→藤沢→平塚→大磯→小田原:63km
川崎
前日が距離を稼げなかったので、先を急ぐ方針でいたが、朝の通勤時間帯に出ばなを挫かれる。大都会は人と車で順調に走れない。京急八丁畷駅前では踏切がなかなか上がらない。
芭蕉句碑 京急八丁畷駅のこの付近は、芭蕉が腰掛茶屋で門人たちと別れたところ。江戸時代は一面の田畑で人家は無く川崎宿のはずれであったという。
芭蕉が故郷の伊賀上野へ向け江戸を立ったのが元禄7年(1694年)5月。弟子たちがここ八丁畷まで見送った。その時詠んだ句が「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句。この年10月、大阪で不帰の客に。51歳。その130年後、俳人の一種がこの句碑を建てたそうだ。
こうした芭蕉の句碑を東海道の行く先々で見かけた。いったい幾つあるのか?全国では相当の数にのぼるのではないか、と思い検索をすると3110余の句碑があるそうだ。さすが俳聖のことだけはある。
横浜市域に入る 八丁畷を過ぎると横浜市域になり鶴見川を渡ると「鶴見橋関門旧跡の碑」が目に入る。横浜開港の当時(安政六1859年)警備のため関門だとの説明。
京急鶴見駅の高架の下を抜けて、その先の生麦事件の現場に。薩摩の殿様島津久光の行列を横切ったと、警護の藩士が英国人を殺傷した現場。この先に遭難碑が立てられている。(現在は仮の場所に移設されている。高速道路の建設のため平成28年末までの予定)
生麦事件碑(遭難碑) 明治16年に地元鶴見の黒川荘三さんが建てたという
事件発生の現場はここらしい。個人の家の塀にパネル(右にアップ)
八丁畷駅前
芭蕉の句碑は八丁畷駅の100m先に保存されている
俳人一種さんが立てた芭蕉の句碑
鶴見川関門旧跡の碑
生麦事件の遭難碑は現在、ここ仮移設場所にある
生麦事件が発生した模様を生麦村の名主関口さんが文久2年8月21日の日記に記した一節を掲示している
神奈川まで9.7km
「歴史の道」 横浜市内には多くの「歴史の道」の碑と掲示板があり、さすが近世の夜明けをになった場所だと思い知らされる。史跡で10人ほどがリーダーの説明を聞いているのに出会った。歴史の道をたどるグループで、他に夫婦や一人で回っているのを度々目にした。一日でとても廻れないと思う。ここ神奈川宿はじめ保土ヶ谷宿・戸塚宿と範囲は広い。
国道1号から右へ折れて進むと陸橋の青木橋横に京急神奈川駅。神奈川条約締結の舞台と開港で諸外国が領事館を多くの寺に置いたのがこの近辺だそうだ。(その後、開港場が横浜に変更)陸橋下は東海道線、横須賀線が走る。
田中屋 青木橋を渡ると正面の崖に大綱金毘羅神社が張り付いているのが目につく。ここから「台」の入口らしく坂が始まる。自転車を押して上る。両側はマンションが並びその中ほどに有名な料亭「田中屋」があった。かの安藤広重の東海道53次の「神奈川」に描かれている。前身は旅籠「さくらや」で、当時から続く唯一の店だという。
神奈川関門の跡 坂をのぼりきると神奈川関門跡の碑がある。神奈川台の西の関門だそうで、外国人殺傷事件に端を発し幕府が主要地点に設けたという。当時の関門の写真がパネルにプリントされている。
坂を下り、横浜駅方向を左にし、まっすぐ進み保土ヶ谷に向かう。
京急・神奈川駅と説明板
広重の「神奈川」で有名な旅籠の現在
神奈川関門跡の碑
保土ヶ谷まで4.9km
JR保土ヶ谷駅方面へ向かう途中に道しるべを見かける。古東海道(官道)と相州道の分岐の道標だ。相鉄線の踏切を越え保土ヶ谷駅前に出る。駅前を通りJRの線路を渡ると国道1号になった。信号を渡ると保土ヶ谷本陣跡の掲示。
保土ヶ谷本陣跡 小田原北条氏の家臣苅部家が代々にわたって本陣をつとめてきたと記されている。
各宿場に置かれた本陣は、幕府の役人や参勤交代の大名が宿泊。本陣に収容できない場合は脇本陣になる。保土ヶ谷宿には3軒の脇本陣があったそうで、現在も旧家が残っているという。
一里塚と上方見付跡 本陣跡からしばらく進むと一里塚跡の掲示。狭いスペースに草花が繁茂し掲示板に近付けない。説明によると、一里塚は江戸から8番目で、このあたりにあったと。また保土ヶ谷宿の京側の出入り口(上方見付)が置かれていたとあった。
国道から右へ旧道を進むとその先は権太坂になり自転車を押して上る。標高は80mもある。権太坂陸橋を上りきると眺望が開け横浜の街並みが見える。陸橋の下は保土ヶ谷バイパス、騒音を発して車が流れている。かつて武蔵と相模の国境から境木の名のある台地の上に案内があった。
境木中学校の塀に案内板があった
神戸町で見かけた道標に「古東海道」と「相州道」
保土ヶ谷本陣跡の説明板
一里塚跡と上方見付跡 その周辺はマンション群
権太坂の勾配はキツイ、陸橋からは街並みが見渡せる
戸塚まで8.8km
道に迷ってJR東戸塚駅前へ出た。周辺の変わり様に驚きながら通過。かつて若かりし頃は毎日の通勤で、車窓から崖の風景を見ていた。もっとも駅がないころからで戸塚駅と保土ヶ谷駅の間に東戸塚駅が出来て開発が進んでいる、と知ってはいたが。その間の時間は長い。当然本人もじいさんになったのだ。
吉田大橋 柏尾川を渡る吉田大橋に行き着く。この周辺が江戸から戸塚宿に入ってすぐの所であったという。橋のたもとに安藤広重が戸塚宿を描く浮世絵の銘板が置かれていた。この橋から、かまくら道、八王子道が延び交通の要衝になっている。
橋を渡りJR戸塚駅へ向かう。大きなビルになった戸塚駅舎と踏切の橋上化への大工事中。踏切が上がらない。やっと渡り、かつての冨塚郷を過ぎ大坂をのぼる。ここで昼飯にしランチで一息。再び腰を上げ走りだす。原宿を過ぎ、次の藤沢へ向かう。
旧家の益田家のモチノキ。神奈川県名木100選の一つ。旧東海道を見下ろす。高さ19m、根回り4.9m。
複雑な道路の分岐点。不動坂の掲示がある。国道1号が二つに分かれ、一方は右に横浜新道へ向かう。旧東海道は左側にあり1号と並行するが、すぐ先で合流する
吉田大橋。戸塚宿はこの橋の周辺であった
広重の53次に描かれた戸塚に吉田大橋が見える
藤沢まで7.8km
藤沢への道は旧道の面影があり一部松並木も残っている。道場坂を下る所に一里塚跡があった。現在の道は旧道を掘削したもので、崖の上が本来の道であったとの説明。昔は急坂であったらしいが、今も結構な急坂だ。正月の箱根駅伝ではテレビで、権太坂とこの坂がよく取り上げられる。坂を下ると遊行寺になる。
道場坂にある一里塚跡の碑
遊行寺 藤沢は江の島や鎌倉などへの観光の分岐点で賑わった。古くは遊行寺の門前町として鎌倉時代以来の伝統ある「昔話のある町」だ。時宗の総本山である遊行寺は日本観光百選の一つだそうだ。
大山信仰で参詣する人への道標が東海道から分岐する地点にあった
旧東海道から東へ遊行寺橋が寺への道を示している
弥陀の「四十八願」にならい48段の石段で境内に
遊行寺境内の樹齢670年高さ31mの大イチョウ
平塚 大磯 小田原まで32.2km
藤沢からは国道1号を辿ることになるので分かりやすい。やっと走ることが出来、松並木がところどころ残る道を急ぐ。茅ヶ崎駅の北を過ぎ相模川(馬入川)をわたる。平塚だ。
旧相模川の橋脚が国道の側に
平塚宿 旧道から左手に駅を見て進むと、江戸方面からの入口の平塚見付。その先1kmほどで宿の出口である京方見付跡。当時の見付を再現する盛り土の塚が古花水橋交差点脇に造られている。平塚宿をしのぶ面影は無いといわれる。見付の場所も定かでなく、このあたりと思われるところに資料などを基に造られたそうだ。
茶碗にご飯を大盛りにしたような高麗山を右に見て街道を進みJR東海道線を横断すると大磯。
大磯 政界をはじめ各界の名士が住みまた別荘を置いたところとして名高い大磯。明治の名士は海岸地帯に並び昭和の吉田茂さんの旧邸はその先にあるという。
宿駅制度が江戸幕府で整備され、大磯宿も整ったといわれ本陣3軒、旅籠66件あったとされる。
鴫立庵 日本三大俳諧道場の一つとされる「鴫立庵」に遇う。西行法師の「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」(新古今和歌集)からとられた草庵。小田原の崇雪が西行寺をつくる目的で「鴫立庵」を結んだとされる。標石に「湘南」発祥の地にちなむ銘があるそうだ。
松並木 街道を進むと、美しい松並木がつづく。この先で旧東海道は右へ、国道1号と分かれる。小田原まであと20kmを切ったが、気ばかり急くのでまっすぐ進むことにした。
国道はゆるい坂になり、相模湾の浜が左下に見え小高いところを走っている。気づくとJR国府津駅前。黒雲が正面にあり、パラパラと雨粒がかかりはじめ、軒下を借りて合羽を取り出そうと止まる。ついでに今夜の宿を探すことに。そうしているうちに雨が上がり、すぐに走り始め酒匂川を渡り、小田原市内には入った。
小田原 最盛期には約100軒の旅籠があったという宿場、本陣跡も4軒だ。昭和に鉄筋コンクリートで再建された小田原城があり、その周辺は公園として整備されている。
昔の人はすごい。日本橋を出て2泊目が、ここ小田原に泊まったという。自転車で走った私と同じ速度で、歩いて来たことになるではないか。
本日の走行距離は川崎から約63km。
明日は箱根越えだ。
相模川に架かる馬入橋を渡る。左にJR東海道線
橋を渡ったところに馬入の一里塚碑。江戸から15番目
平塚宿の京方見付跡の土盛。右手奥に高麗山
旧跡「鴫立庵」
大磯の美しい松並木。小田原まで18㎞とある
小田原宿の江戸口見付跡の標示。江戸から83kmと