定年後を楽しく トップ自転車で東海道トップ

東海道、自転車の旅

~千葉から京都・三条大橋へ~

東海道をゆく

七日目

 この日は天候に恵まれさわやか。西へ向かうということは午後の長い時間正面からの強い西日にさらされる。顔は日焼けし、老人特有のシミがまた増えた。すでに1週間が過ぎ、慣れからトラブルも。豊橋市から知立市へわずか42km。伸びない行程に焦りを感じる。しかし街道はのぼり坂がなく、楽に走れた一日だった。

 
吉田→御油→赤坂→藤川→岡崎→知立:42.2km

吉田 御油 赤坂まで11.9km 

 吉田宿 昨日は日が落ちて豊橋市の中心部へ入り、JR豊橋駅前の都市ホテルに泊まる。今朝は、ふたたび東海道筋に戻る。日曜日なので朝の街は静かだ。車も人も少なく走りやすい。路面電車が時折走る通りを東八町の停留所へ。今日の出発点はこの大きな常夜灯が置かれた、ここから。

 路面電車の札木停留所付近が宿場だったといわれ本陣跡などがある

 吉田宿は、城下町であり、お伊勢参りへ向かう船が出ていたという。また東海道から北へ南へ向かう街道の分岐点で、交通の要衝。このため旅人が多く、客目当てとする飯盛り女の多いことでも知られ、宿場は賑わったという。
 市の中心部の札木町が宿場であったが、今は現代的な都市の豊橋であり、本陣跡などの遺構が見られるだけだ。

 吉田城跡に鉄櫓(くろがねやぐら)が豊橋公園に復元されている

 御油宿へ 豊川をわたり、豊橋市から豊川市の御油宿へと街道を進む。ほゞ国道1号線と並行した街道が、国道に合流するが再びすぐに左の旧道に戻ると、名鉄名古屋本線の国府駅前に。大きな松におおわれた神社は大社神社。その横を街道が通り、その先が姫街道への追分だった。

 姫街道への追分 東海道と姫街道の追分へさし掛かる。ここで脇街道である姫街道が東海道につながるのだ。舞阪から浜名湖を舟で渡らず、浜名湖の北へと迂回した街道が姫街道。見付宿からはじまるこの街道は、厳しい新居の関所を嫌っての迂回路。といっても関所(気賀の関所)はあり、本坂峠を越えるところから「本坂越え」とも呼ばれ、ここ御油宿へつながっているのだ。常夜灯と石碑の道標が残されている。

 御油宿本陣跡の標識。お店の横に設置されていたがなんだか寂しい。

 天然記念物の松並木 御油宿を代表するのは松並木。街道の両側に600mにわたってつづき、約300本のクロマツが保存されている。昭和19年に国の天然記念物に指定された。また、松並木資料館が置かれ、300年を経た松の根っこを展示していた。

 赤坂宿の入口を示す江戸方の見付跡がここにあったとの説明板。

 赤坂宿へ 御油宿からわずか1.6kmで、東の見付跡の案内があり、赤坂宿に入る。その先に関川神社があった。境内に芭蕉の句碑,「夏の月御油よりいでゝ赤坂や」と、宿場の間が近いことを詠んでいるとのこと。芭蕉の句碑は、なんと多いことか。

  

 赤坂宿の本陣跡の案内板。民家の玄関前に設置されている

 唯一無二の現役 赤坂宿で有名なのが現役の旅籠「大橋屋」。創業が1649年だというから360年以上だ。東海道の宿場で今も現役で営業しているというのはすごい。

 藤川へ 赤坂宿を西へ街道を進み国道1号と合流し、次の藤川宿に向かう。

 豊橋鉄道市内線が道路中央を走る。

 吉田宿の常夜灯(東八町交差点)東海道と本坂通の分岐点に、宿駅400年を記念し本来の地に置かれた

吉田宿の東総門跡(八町) 

 御油宿へ入る手前の大社神社。左に旧街道が延びる

 御油宿の常夜灯。本坂越え(姫街道)への追分

 御油宿といえば天然記念物に指定された松並木。

 赤坂宿の関川神社。境内に芭蕉の句碑。

 赤坂宿のかつての街並みを紹介した案内板

 赤坂宿の大橋屋。現役の旅籠で今も営業を続けている

藤川 岡崎 知立まで30.3km

 藤川宿 国道1号線を走ってきて、藤川宿を案内する掲示と石の道標に出会う。こうした大きな案内はありがたい。歩きと違い、見過ごしてしまうことが多く目立った道標がほしいと思っていたので。
 その先に宿場の東の棒鼻跡に行きあたった。宿場に入り本陣跡や脇本陣跡の藤川宿資料館を過ぎ、西の棒鼻前をすすむと松並木だ。この松並木は岡崎市の天然記念物に指定されていた。

 棒鼻跡 宿場の出入り口に立てられた標柱のことで、ここ藤川では、広重の五十三次の絵に描かれた通りに再現した棒鼻だという。道の両側の土塁を石垣で築き、長い柱に「これより西 藤川宿」と書かれている。

 藤川宿の案内が国道1号と旧街道の分岐するところに設置されている

 藤川宿の一里塚跡を示す石碑

 岡崎へ 藤川の松並木を後に街道を西へ進む。右に常夜灯、左に立派な一里塚があるところに出合う。土塁の上に榎がそびえ、西大平というバス停があり「史跡大平一里塚」の石柱が立っていた。

 岡崎宿へ向かう大平一里塚が狭い場所に土塁が盛り上がっていて、その上に榎が繁る

 二十七曲がり 市の中心部に入り、岡崎市郷土館を国道わきにみつけて寄ってみる。岡崎宿は「二十七曲がり」として有名なので、道をたどるにはややこしい。案内書をたよりに道を進むことになる。進むと角ごとに案内の道標が設置され助かった。

 岡崎宿 徳川家康が生れた岡崎城の城下町として発展した岡崎宿は、二十七曲がりが特徴。城の守りのために迷路のような道筋になったという。かど角に案内の標識と「わらじ」を象徴的に配置し、また、かわいい石造りの彫像が配置され見ていて楽しい。
 かつての宿場の中心は、伝馬通りとのことで案内標識には「これより伝馬町角まで:660m」などと示され、本陣や問屋場などがこの通りに集中していたようだ。

 岡崎宿の道は二十七曲がり、道標が曲がり角に設置されそれに沿って歩くことができる。

 岡崎城と家康 天文11年(1542年)に誕生した家康は6歳までと、その後18歳で戻り10年間をこの城で過ごしたという。お城は室町時代に三河の守護・西郷氏が築き、その後家康の祖父である松平清康が拠点とし、秀吉の時代に田中吉政が城下町の基礎を作ったといわれる。

 知立へ 岡崎公園前を過ぎ、矢作川にかかると白壁の蔵が左手に連なって見え、ここが八丁味噌の生産地だった。お城から八丁の距離だったので、その名が付いたという。
 かつて矢作川に架かる橋は江戸時代に木造の橋としては、最長(208間)だったそうだ。現代の矢作橋を渡り知立(ちりゅう)へ向かう。

 知立と池鯉鮒 「ちりゅう」の表示に二通り使われ「池鯉鮒」とも使われている。知立の方が古くから使われることが多かったという。江戸時代に雨乞いの行われていた御手洗池の鮒・鯉は殺生が禁じられ地名の由来になったという。

 知立宿 国道1号から旧街道へと入り、永安寺の雲竜の松を見る。さらに先へ進むと道の両側に来迎寺一里塚があり、江戸から数えて83番目の一里塚と説明されている。その先で再び松並木。その中に「馬市」の碑。かつて馬の取引で市が立っていたという。
 いまの知立市の宿場の中心は、名鉄知立駅前や三河知立駅が錯そうし賑やかで、本陣跡などの石碑がある程度で宿場の面影は無い。

 日が暮れる 秋の日はつるべ落とし、早く暮れてくるように思う。今日は、わずか42kmという短い距離で打ち止めだ。カメラの電池切れという思わぬトラブルで足止め約2時間。油断していたことを反省。

 同好の士 今日は日曜日だからか、私と同じシニアの同好の士、夫婦連れが街道を前後して歩いている姿を度々見かけた。東海道に興味を持ち街道をたどる人は多い。その後も大津までの間にも沢山の歩く人に遇った。

 藤川宿の東棒鼻跡。広重の絵を再現したといわれる

 藤川宿の資料館となってる本陣跡。石碑と案内板も

藤川小学校前にある藤川宿西の棒鼻跡

大岡越前守が西大平藩主であった陣屋跡の案内

 岡崎宿の西本陣跡の石柱がコンビニの前に。

 岡崎宿の街道を進むとかわいい石の彫像が各所に。足を止めてみる。ここでは「旅籠屋」を示す案内だった。旅人が旅籠に着いて足を桶に入れ洗う姿、横に菅笠と草鞋という芸の細かい細工が施され、案内板には上、中、下の旅籠があり、飯盛り女も宿場では盛んであったと。

 岡崎城跡の公園入口。広大な敷地のなかは復元された天守閣(資料館)と石垣などや庭園などがある。

知立宿に入る手前の永安寺。雲竜の松が有名だ

 知立宿手前に左右一対の来迎寺一里塚

知立宿に入ると「池鯉鮒宿」の案内の石柱

知立古城址は小さな児童公園。桶狭間の戦いで焼失