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東海道、自転車の旅

~千葉から京都・三条大橋へ~

東海道をゆく

八日目

 距離が延びなかった昨日の反省から、気合を入れ今日は頑張って走ろうと出発。結果、満足いく距離を出すことに。大都市・名古屋を通過するので煩雑さを心配したが、いつの間にかという感じで抜けていた。鳴海の寺々、宮の渡し場跡など印象に残る尾張から、木曽三川を渡ると三重県で後半を過ぎたことを実感する。

 
知立→鳴海→宮→桑名→四日市→石薬師→庄野:70.7km

鳴海 宮 桑名 まで44.8km 

 鳴海宿へ 知立駅(名鉄・名古屋本線)の北に国道1号が通り、その上り線に面したビジネスホテルを出る。朝の空気はヒンヤリしている。10月であるから当然のことだが、日中は半袖で汗をかくほど。この日もお天気に恵まれた。
 国道1号と付かず離れず進み三河と尾張の境を過ぎる。国道から左へ旧道へ。阿野一里塚に出会う。ここも国指定史跡として保存されている。

 古戦場跡は… 名鉄・名古屋本線に沿って走り中京競馬場前駅に。狭くてゴチャゴチャした感の駅前を名鉄のガード下を抜け、左への道を少し上ると史跡公園。「伝説」と注釈のつく桶狭間古戦場跡の碑が建つ。織田信長が今川義元を降した戦場で、義元の墓が公園内にある。こことは別にも桶狭間古戦場跡があるという。

 有松絞りの地 知立と鳴海の間の宿場である有松に入った。絞りの産地として有名だ。街並みが豪華なたたずまいで、格子戸の町屋、白い土蔵つくりの建物が連なる。街並みが保存地区にされ江戸時代の情緒を目指す観光地になっている。400年の歴史のある手作りの伝統工芸を紹介する有松鳴海絞会館がある。

 鳴海宿 街道を名鉄・鳴海駅の北側へ出てくると、かつての宿場の中心であったようだ。その手前に低い丘陵地の斜面に沿う街道の両側は、大都会名古屋の住宅やマンションが並ぶ。その建物の上を大きな甍の屋根が見え、立派なお寺が目に入る。瑞泉寺だという。他にもお寺が多く、何とも趣のある街に感じる。鳴海駅からの道を北へ上ったところに鳴海城跡公園があった。

 宮の渡しに向かう 名古屋市内の煩雑な街道をたどり七里の渡しの宮宿へと進む。天白橋をわたり進むと笠寺一里塚に。その先の名鉄・本笠寺駅側の踏切を越え、さらにJR東海道本線の踏切と名鉄・常滑線のガード下をくぐると、熱田神宮が近く門前町に。

 同好の士と 鳴海宿を後に宮宿へと進んでいると信号待ちで、同好の士と思しき自転車に乗った方に並ぶ。さかんに前かがみで何かを調べている様子。声をかけると、やはり東海道を折り畳みの自転車で走っているという。私と同様に関東で、群馬県の方。区間を決めて走り、今回は3日前に掛川から。今日、桑名へ走り引き上げるとのこと。七里の渡し跡で別れる。野口さん!元気ですか。その後、京都まで行かれたことと思います。

 宮宿への途中、同好の士に出会う

 宮宿 熱田宿とも言われた宮宿は、桑名への海上航路の渡し場としてにぎわい、東海道中で第一位の宿場数(250軒)を誇ったという。七里の渡し跡は「宮の渡し公園」の中にあり、堀川に面している。常夜灯が復元され、時の鐘を収めた鐘楼もある。公園からは海は見えない。埋め立てで名古屋港は、はるか彼方だ。往時の航路は「七里の渡し」と呼ばれ、旅人は桑名までの船旅を楽しんだ。

 桑名へ 宮宿を出て302号線を走り、木曽川手前で国道1号と合流した。木曽川・長良川・揖斐川を渡る。渡りきって川沿いに下り桑名の船着き場を目指す。

 木曽川を渡る。川の中央が県境

 桑名宿 海路で旅人は、桑名の七里の渡し場に。順調に進み約4時間もかかったそうだ。着いたここが宿場の中心であったようで、道中第二位の宿の数があった。
 伊勢の国の東の入口として伊勢神宮の一の鳥居が建てられている。近くに料亭・旅館が見え、かつての本陣・脇本陣があった所だという。
 昭和34年の伊勢湾台風出甚大な被害が出て、現在は堤防で嵩上げされている。揖斐川に面した船着き場から、桑名城跡へかけ、この一帯は公園化され広々している。市民の憩いの場となっていて、今日は月曜日だが体育の日・祝日、多くの人が憩っていた。
 桑名は城下町でもある。本多忠勝が城主であった。九華公園前にその銅像があった。千葉にもゆかりの彼は大多喜城主から、関ヶ原合戦ののち桑名へ移った。
 お城のお堀を一部埋め立て「歴史を語る公園」があり日本橋から京都・三条大橋までの東海道をまとめている。

 桑名城主であった本多忠勝像

 「東海道は こちらでござる」の手書きの道標。渡し場を出てのところに。こうした案内はありがたい。

知立から鳴海宿へ。名鉄・豊明駅の先に阿野一里塚

 鳴海宿の手前に伝説桶狭間古戦場跡の碑

 からくり人形を乗せた山車を収納する土蔵つくりの有松山車会館(右手の白い土蔵)と時代を感じさせる街並み

 有松絞りの歴史や技法などを紹介・販売している有松・鳴海絞会館。尾張藩が推奨したことが始まりという

 有松絞の開祖である竹田庄九郎さんのお店で屋号は笹加。歴史的な街並みを伝える建物が再現されている。

 鳴海宿を出て宮宿への道の右手に丹下町常夜灯

 名古屋市内に入り宮宿へ街道を進むと、笠寺一里塚に出会う。大きな榎木が茂り見事だ。石柱に一里塚の標示

 宮宿の七里の渡し場跡。かつての海は遠く見えない

 木曽川を尾張大橋でわたり長良川・揖斐川を伊勢大橋で渡る。木曽川の中央で愛知県から三重県に変わった。

 桑名の七里の渡し場跡。常夜灯と伊勢神宮一の鳥居

 船着き場は堤防を水門で切って再現されている

四日市 石薬師 庄野 まで25.9km

 富田一里塚跡を近鉄線脇に見る

 四日市宿 四日市市は三重県の最大の都市である。かつては港町として、またお伊勢参りへの分岐の参道があり、大そうにぎわたったといわれる。
 桑名宿から走ってくると柿(地名)の交差点にぽつんと常夜灯。四日市宿場が近くなったと分かる。さらにその先で富田一里塚跡の碑。進むと笹井屋さんが目に入る。なが餅で有名だ。その先に大きな石柱があり「すぐ江戸道」の文字が刻まれている。古い道標で、およそ200年前の建立だが、昭和に作り変えられたという。
 宿場の面影は、今は無く本陣、脇本陣跡などを示す案内の標識もみあたらない。街道を進むと日永の追分。国道と合流するところにこんもりと木が茂っていた。

 日永の追分 伊勢神宮への参宮街道と東海道の分岐点。大きな石の道標と常夜灯がある。神宮遥拝鳥居が参宮街道に道を跨いであったが、道路の拡張でここに保存されたそうだ。不思議なことに、このわずかな緑地で湧水をありがたく汲んでいる人を見かけた。

 追分の小さな緑地帯の中に、くぼみがあり、水が湧き出している。

 石薬師宿へ 近鉄内部線の追分駅手前の線路を越え、石薬師へ向かう。道は内部駅前を通る。この線の終点だ。妥女町はその先で、伝説のヤマトタケルゆかりの地という。杖衝坂(つえつきざか)がある。

 石薬師宿への国道1号に妥女一里塚跡の碑がガソリンスタンドの陰に

 石薬師宿 国道を外れ旧道を探して入る。はたしてこれが旧道だろうか、疑問を持ちながら進む。心細い道で、農作業中のご夫婦に聞く。間違っていた。やっと案内板が現れ安心した。
 ここは鈴鹿市石薬師町。国道沿いは賑やかだが、一歩横へ入ると、農業を中心の地域でひなびた宿場だ。次の宿場間へ距離が長かったので設けられたという。本陣跡を示す旧家があった。
 街道を進むと各所に「信綱かるた道」と表示がある。万葉研究で有名な佐々木信綱の生誕地で記念館がある。

 石薬師宿の南の外れで道は国道1号の上を橋で渡ると石薬師寺

 庄野宿へ 石薬師寺を過ぎ小さな川をわたると一里塚の碑を見る。JR関西本線を渡り国道1号に出る。左に鈴鹿川の盛り上がった土手がつづく。わずか3km弱ほどで庄野宿へ入る。53の宿場間で2番目に短いらしい。

 祭りの最中の庄野宿 庄野宿は、鈴鹿川の左岸側にあり堤防沿いに田んぼの中の旧道を進む。庄野宿の文字がパネルに張り付けられた石柱と広重の「庄野の白雨」の絵を付けた案内板に立ち止まる。
 街道の露地に人が大勢座り込んでいて、通行止めの注意書きがあった。秋祭りの打ち合わせ中だ。地区ごとに開催しているようで、獅子舞が行われているところもあった。
 わき道を通り、街道へ入り直すと本陣跡の石柱を見る。この宿場の中心だったところらしい。車もお祭りなのか通行が少なく静かな宿場町だ。

 庄野宿はお祭りの最中、街道は地域の人が若者の獅子舞を見守る。

 四日市の名物「なが餅」の笹井屋。創業が天文19年(1550年)というから歴史がある店だ

 四日市宿の中心地に石の2mほどの道標をみる。「すぐ江戸道」とあり片面には「すぐ京いせ道」と指さしの手のレリーフが彫られている。「すぐ」とはまっすぐの意味。古い道標で文化7年(1810年)と片面に彫られ、建立の年。当時の位置とは違っているらしい。

 東海道の分岐点「日永の追分」。東海道は右へ京方面へと、左に伊勢参宮道へと分れる。ここは四日市宿と石薬師宿の間の「間の宿」でもある。

石薬師は「信綱かるた道」でもある。「信綱かるた」から選んだ36首の歌が1.8kの間に掲示されている。

 石薬師の小沢本陣跡

宿場の名称になった石薬師寺の門前。泰澄という高僧が霊光をもつ石を見てこれを祀ったことが創始。その後弘法大師が薬師如来像を彫り供養したと伝えられている。

 石薬師宿の外れに一里塚。エノキが茂る

 庄野宿の東の入口に案内板

 庄野宿の本陣跡