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東海道、自転車の旅

~千葉から京都・三条大橋へ~

東海道をゆく

四日目

 「東海道」という自分の中のイメージを確かめるような日だった。駿河湾と富士山、それは田子の浦の万葉歌を思い起こす白砂青松。富士川、薩埵峠からの眺望への期待。そして宿場の雰囲気を持つ蒲原宿を通って、最後は家康ゆかりの府中へ。これぞ”東海道”との感を深くし、街道を進んで行くことが出来た。

 
沼津→原→吉原→蒲原→由比→興津→江尻→府中:56.3km

沼津 原 吉原 蒲原まで28.7km 

 千本松原に沿って 沼津駅の北にある宿を発って通勤・通学の人を避けながらJR東海道線の下を抜ける。駅前へ出て沼津城の本丸跡があるという中央公園前を通過し、旧国道1号線を進む。千本松原で知られる駿河湾に沿った松林が続く。長い松並木だ。
 千本松原が続く途中で、自転車を下りて松林の中を歩き海岸へ出てみる。護岸壁をのぼると、駿河湾がキラキラと朝の光を映して美しい。左に伊豆半島がせまっている。右へは田子の浦へと曲線が続く。富士山は、上半身はあいにく雲に隠れ全体を見せてくれない。一日中この状態だった。

 原宿を過ぎる 旧東海道は県道163号だそうだが千本松原に沿った旧国道1号(380号線)を進み、知らないうちに原宿を通過していた。この二つの道路はJR東田子の浦駅の手前で合流、駅のさきに立円寺という寺の境内に望嶽碑というのがあった。先人が富士山を望むには最適なところと、碑を建てたとか。ここはすでに「元吉原宿」になっていた。

 吉原宿から富士川へ 吉原宿は、かつて津波や高潮などの被害に遭い元吉原、中吉原、新吉原と場所が移転したという。JR吉原駅の手前で線路を渡り、北側へ出る。この駅の南方向が田子の浦だ。山部赤人の有名な万葉歌で知られるところ。現在は国際港という。
 東海道新幹線の下をくぐる。このあたりで「吉原左富士」が望めるというが雲に隠れて山は見えない。道はJR身延線を渡り、少し進むと富士川になる。広々とした河原と水量豊かな流れがある。ここからの富士山は素晴らしい眺めであろうが、残念。新幹線で富士川を渡るとき、いつも富士山を期待して見ていたが、じっくりとみられるところで見られない。

 富士川橋の東詰めに水神ノ森。かつての渡船場跡。当時の定渡船は30人・牛馬4疋を乗せ船頭5人で渡ったという

 蒲原宿の街並み 富士川をわたると山すそに突き当たる。この裾に沿って、河口へ向け旧東海道、旧国道1号線や東名高速道路が通っている。昔は富士川がたびたび氾濫し道が流されることがあり、付け替えられたという。旧東海道も峠が新坂となった。この小さな峠を越え蒲原宿に入る。
 初めて宿場らしい雰囲気が感じられる街並みが出現した。観光用に整備されているのだろうが、昔はこのように道の両側に旅籠や本陣があったのだろう。以後もこうした整備された宿場を各地で見ることが出来た。

 富士川を渡り山脇を道が上って行く。左下に東名高速道路が現れ、その上を陸橋で越える。住宅街に入り急坂が目の前に。これが「新坂」らしい。駿河湾が見える。下ると蒲原宿だった。

 蒲原宿は東端にある東見付から西見付まで約1kmにわたって、宿場の面影を大切にしている。旅籠の構造はそのままを維持しているという。

      

 旧国道1号線を歩道橋から沼津方面を振り返る。松林が延々と約10kmにわたり駿河湾に沿う(画面の左)

松林をぬけ駿河湾を護岸堤の上から眺める。伊豆半島が右手にふさぐように湾を作り右に田子の浦方向が望める

県道163号線沿いの立円寺に望嶽碑(元吉原宿) 

 吉原宿の秋葉山常夜灯と道標が左東海道と示す

 富士川橋の歩道。780mを渡り、正面の山裾を河口方向へ峠を越えると蒲原宿に入る

 富士川をわたり右岸側から富士山を望むが、雲のなかだ。流量が多く渡船でないと当時は渡れなかっただろう

 蒲原宿の東見付跡と常夜灯。

 昼前の蒲原宿。人通りの途絶えた静かな街道

由比 興津 江尻 府中まで27.6km

 由比宿に入る 蒲原からは左に駿河湾、右に海に向かって落ち込む急斜面に沿って由比へ進んで行く。
 道路わきで一里塚跡を作る工事を見かける。土塁の塚のスペースはなく2m四方ほどの小さな規模。江戸から39番目の塚。由比宿に入っている。その先に「お七里役所跡」のパネルが人家の塀にあった。

  お七里役所之跡と説明板

 江戸・和歌山間を4日 「お七里役所」の説明によると…
 徳川紀州家の七里飛脚の役所がここに置かれていたという。江戸と和歌山間(584km)の約7里毎の宿場に中継ぎとして配置され、普通便で道中8日、特急便は4日足らずで届いたらしい。普通便は毎月3回出ていた。飛脚は七里衆と呼ばれ中間が選ばれ、五人一組。刀・十手を差し徳川の威光を街道で示した…と。
 西国の大名は、このような江戸と領国との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持っていたといわれる。 

 由比本陣跡 現在は由比本陣公園として整備され、広い敷地内に東海道広重美術館や交流館が開設されている。平日にもかかわらず、観光客が結構訪れている。表門の道をはさんで正面の家にのれん「正雪紺屋」の文字。ここが由比正雪の生家だという。あの幕府転覆を企てたといわれる人物。浪人者を集め政治の改革を行おうとしたが事ならず。

 由比正雪の生家だといわれる紺屋

 この生家のならびに「おもしろ宿場館」という食堂があり、名物の桜エビの定食を頼む。

 名物の桜エビのかき揚げとしらすをアレンジした紅白の定食

 薩埵峠へ 楽しみな薩埵峠へ向かう。峠から富士山の眺望を是非とも見たいと願っていた。JR由比駅前の街道を進むと右の山へ向かって狭い道を上る。自転車を押し上げミカン畑の農道を進む。左側は崖が落ち眼下に東名高速、国道1号が海際を通る。やがて峠の道標に出会う。その先に展望台があるが念願の富士山を拝むことは出来なかった。

 ソバ一杯分の渡し賃 峠をくだると興津川に。「川越し」跡の標示。説明によると…
 川を渡るには、川会所で「渡し札」買って、連台か人足の肩ぐるまでわたる。値段は、その日の水深で値段が違う。
 ・太股川(42cm):12文~5段階あり、・はさみ川、・横帯川、・若骨川で・脇水川(150cm):42文まで
 深さ4尺5寸(150cm)を越すと川止めになる。
 冬季は水量が少ないのか、仮橋が架り無賃だ。
 なお、天保のころのソバ一杯の値段が16文だ。

 興津宿へ 川をわたって興津宿へ。新しく最近整備された感のある興津宿公園に、宿の名の由来が記された案内板があり、かつての街並みと現在の様子を紹介していた。
 街道の右手に大きな山門が見えてきて、清見寺だ、と足を止める。この寺を訪れた文人墨客は多い。奈良時代からの禅寺だそうだ。家康も少年時代にここで勉強したという。 

 ほそいの松原の跡。太平洋戦争で松が伐採され無くなった。

 江尻宿をすぎる JR清水駅の北を通る旧国道1号をすすみ巴川に出合う。稚児橋の周辺が江尻宿だったとあり、辿るとすぐに欄干に河童の人形を見つける。江戸の昔、橋の完成で渡りぞめの時、お河童頭の稚児さんが川の中からあらわれたとの伝説から名が。
 清水といえば三保の松原。ここからの富士山を見たかったが一日中雲の多い天気で富士山は期待できない。時間も4時を過ぎ、湾の向こうにある三保の松原までは少し距離もある。あきらめ先に進む。

追分の道標 橋を渡りその先に追分の道標が目につく。久能山へ向かう分岐だ。
 さらに、進むと「草薙」の地名を見る。いよいよ府中だ。

 追分羊羹の老舗の前に久能山への追分の道標(左に人の後ろ)

由比本陣跡の公園と東海道広重美術館のある表門

由比宿交流館のお休みどころ由比宿交流館にパノラマ模型などがあり歴史が学べる

JR由比駅前の街道は桜えび通り

    

東海道名主の館「小池邸」

さった峠の道標。駿河湾が眼下に広がる

峠の展望台からの眺めは雲多く富士の姿はなし

興津川の左岸に「川越し」跡

興津宿公園の案内板

 清見寺。山門と寺の間にJR東海道線が通っている。山門に「東海名区」の額。海の眺めが良かったという

河童頭の稚児が四隅に配置されている「ちごはし」