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東海道、自転車の旅

~千葉から京都・三条大橋へ~

東海道をゆく

九日目

 サーキットで有名な鈴鹿市を発ち、宿場らしい佇まいの関宿、静寂な坂下宿へと進み、鈴鹿峠を越える。滋賀県に入り、京は指呼の間に。慌ただしく先へ先へと急ぐ旅になり反省するが、惰性なのかまたも同じことをやってきた。そうして、この旅もあと1日となってしまった。草津で夕暮れを迎えたとき沢山の残念がよぎる。

 
庄野→亀山→関→坂下→土山→水口→石部→草津:65.7km

亀山 関 坂下 土山 まで29.8km 

 庄野から進むと中冨田一里塚

 亀山宿へ 今日も快晴の朝を迎え、近鉄・鈴鹿線の平田町駅に近いビジネスホテルを出る。昨日は、庄野宿で日暮れとなり、泊まるところを探し鈴鹿の市街地へ。サーキットで有名な鈴鹿は、開催中は宿が取れないそうだ。全国からファンがやって来るためで、開催中に遭遇しなくてよかった。街をゆくと大きな工場を見かける。広々とした敷地だ。大型のショッピングセンターもあり、活気のある街のようだ。。
 鈴鹿川へ出て汲川原橋を渡り、旧道を進む。川俣神社が庄野には三つあるそうで、そのうちの一つ中富田一里塚を確認し、JR井田川駅へ。

 亀山宿の手前に和田一里塚。慶長9年の建立という。平成5年に元の位置より東側に復元されたそうだ。

 亀山城跡… 伊勢亀山城は関実忠が文永2年(1265年)に築城。その後、城主が替わったり、城の拡大・改修が重ねられたという。関氏16代の居城で、織田信長に追放されて以降も目まぐるしく城主が入れ替わった。石川総慶が入城し以降11代で明治の廃城令を迎えている。現在は石垣に多聞櫓、堀などが残っている。

 亀山宿 宿場に入ってくると江戸口門跡の案内。その先に脇本陣跡、本陣跡、問場屋跡があり、大手門跡とつづく。まっすぐ進んでしまい市役所前に出る。これと向き合うかたちで亀山城址があった。道は市役所の西側面へ回り込むように左へ曲がって下って行く。古道は、直進した広い道ではなく大手門跡から左へ入るのだった。
 街道筋を行くと商店に昔の屋号が出ているのを時おり見かける。かつてのお店が何を商っていたのか様子が分かって面白い。

 関宿へ お城跡から坂をくだり、京口門跡を過ぎ街道を進む。野村一里塚を前を通って、JR関西本線を越え、鈴鹿川に沿って関へ。国道1号線から右へ旧道へ入ると、関宿の大きな看板に出会った。

 古い町家の関宿 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された関宿へ入ると古い建物がつづく街並みに、さすがによく残っているな、と感心する。これまで通ってきた宿場は観光地として整備されているが、ここ関宿は比較的自然で保存の規模が大きい。
 かつて、ここに関が置かれ、鈴鹿の関と呼ばれたという。三関(不破の関、愛発の関)の一つだったが、徳川時代に廃止。五十三次の宿場になる。
 関宿は、京への鈴鹿峠越えとともに、宿場西の追分で大和街道、東の追分で伊勢別街道へとつづく交通の要衝で、当時は旅人でぎわったという。

 坂下宿へ 関の宿場を西の追分から坂下宿へ向かう。国道1号線へ出て山間の道となり、鈴鹿川上流へと川沿いに上って行く。見上げると山の斜面を国道のガードレール側面が白く見え、あの高さへ上るのかと、心が折れる。自転車を押して歩いたり、乗って進んだりしながら高度を上げる。

 坂下宿への道に「鈴鹿馬子唄発祥の地」の碑があり「正調」と、わざわざ刻まれている。

 静かな山の坂下宿 国道1号から右へ鈴鹿川を渡り、旧道へ入る。左岸側の山に沿って道は伸び、やがて鈴鹿馬子唄会館のユニークな球形の建物が現れた。道に面し石碑が建っていてここが「発祥の地」と刻まれている。その先が坂下宿の跡だった。
 緩い坂道に集落があり、空き地を挟んで民家が並んでいる。車の往来も無くシンーと静まりかえり、山が迫っていて鈴鹿峠は目の前と実感できる。
 江戸時代には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠が48軒という街道でも有数の規模で、本陣の家の広さと大家の多さで有名だったようだ。松屋本陣跡、大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡の石碑が茶畑や民家の道路わきに建つだけだ。
 宿場は慶応安3年(1650年)の大水害で壊滅し、現在地へ移転したものだという。
 明治23年(1890年)に関西鉄道の開通で宿場の役割を終えた。峠を越える新しい道路へと付け替えられ、集落の中を通行することが無くなった。今は地元住民の生活道になっているのだ。

 鈴鹿峠への道。杉木立の参道

 鈴鹿峠越え 坂下宿跡をあとに片山神社に向かう。山道のようななかを進むと突き当りになった。木立の薄暗い中に神社。ここから峠へ、の案内があるが自転車を持った身では登山者のように崖をのぼることができない。引き返し国道を行こうか、と考える。静寂な中に車が走るシャーという音が崖上から聞こえ、道路が近いと判断、意を決して行くことにする。石畳の丸い石に足を取られ、狭くて急な階段を押し上げることに。道路へ出れば何とかなる、と担ぎ上げる。小さな休憩広場に出て目の前に道路だ。登山者はここからさらに上って行くようだ。やれやれと一息つく。上りの2車線道路で100mほど先にトンネルが見える。トンネルの側道を走り抜けると滋賀県に入った。

 鈴鹿トンネル上り線を滋賀県側で

 万人講常夜灯 鈴鹿トンネルの上に万人講の大石灯籠があるというので見に行く。茶畑を上って行くと、大きな石灯籠があった。高さが約5・5mという。約300年前の建立で金毘羅万人講が寄進、旅の安全を祈願し、旅人の目を楽しませたという。

 土山へ 標高が350mを少し超える峠の茶畑から近江の国の山と麓を眺め、国道1号線に戻り走り始める。下る一方で快適だ。遠くに高架の新名神高速道路が横一文字の白い筋で見えていたのが、急速に近づき土山宿へ。

 土山宿 国道から右へ旧道へ入ると、小さな橋の側面を白壁に塗り、欄干は瓦で飾った長さ5mほどの来見橋が迎えてくれた。道標が脇に立ち「歴史の道東海道」土山宿と書かれている。宿場へ入ると「井筒屋跡」など、宿内の遺跡が印された石柱が至る所にあり、歴史保存に熱心なことが感じられる。
 それもそのはず、今から24年前に第一回の東海道五十三次シンポジュウムがここ土山宿で開かれた、という。

 平成の万人講。平成4年にふるさと創生資金で建てられた。高さ9.33m、重さ156.トン。国道にある。

 水口宿へ 旧道と国道1号を出たり、再び入ったりを繰り返しながら西へ進む。

 亀山宿へ向かう。JR関西本線の井田川駅前の案内

 和田の道標。元禄3年(1690年)建立で三重県内で最も古い道標。ここ東海道から鈴鹿市内方面への分岐を示し正面に「従是神戸、白子、若松道」が刻まれている。

 亀山宿の入口、江戸口門跡を説明する看板

 亀山城址に立つ石碑。多聞櫓の修理中(後ろの幕で覆われたところ)

 野村一里塚。和田の一里塚と共に古く、3mの塚の上に幹回りが6m、樹齢400年を超えるムクの木がそびえる。道の両側に塚があったが北側の塚だけが残された。

 国道1号から右へ分岐、関宿の入口に大きな案内板

 一の鳥居、常夜灯が伊勢別街道を示す東の追分。西の京からお伊勢参りする旅人は、この鳥居をくぐって参宮したという。東海道を行く旅人は、ここから伊勢を拝んだ。

 関宿の街並み。七割の建物が戦前までのものだという

 関宿の伊藤本陣跡。建てたときのままで現存という

 関宿の高札場跡が白壁の土蔵風の郵便局前に立つ

坂下宿の梅屋本陣跡が茶畑にさびしく立つ

片山神社から峠道への案内板。山道を上ることに

万人講大石灯籠の塚

土山宿の一部は整備されている。石碑は旅籠跡

土山宿の問屋場跡の石碑。画面奥は伝馬館

土山本陣跡

水口 石部 草津 まで35.9km

 水口宿への道に一里塚跡(今郷)

 水口宿 街道に並行し野洲川が流れている。地図上で分かるが、川が視界には入ってこない。甲賀の中心地だという水口宿に入る。宿場東の見付を進むと、連格子と白壁の古い町屋が目に入る。
 水口藩が大和二年(1682年)に成立して以降、城下町として発展した宿場だ。古くは岡山城が天正十三年(1585年)に築かれたが、関ケ原の合戦で落城し、新たに寛永十一年(1634年)に水口城が造られた。平城で家光が上洛する際の宿館という。

 水口宿本陣跡。竹の塀の奥に碑

 曳山のあるまち  宿場は大岡山(古城山)の南山麓に町並みが広がって「三筋の町」と謳っている。真ん中の通りが東海道、両側に並行して通りが約800mほどつづく。また、「曳山のあるまち」とアピールしており、曳山祭の二層露天式人形屋台が見ものとなっている。からくり時計の曳山をシンボルにしたものが広場に置かれている。

 水口宿の三筋の広場には二つ目のからくり時計が曳山に乗っている

 横田の渡し 水口宿をあとに旧道を行くと野洲川の土手に突き当たる。昔は、横田川と呼ばれ、ここから対岸への渡し場跡だ。まだ明治時代の石組みが堤に見られる。横に大きな常夜灯が立つ。文政五年(1822年)に万人講の寄進で建てられたという。高さ10.5mの街道でも最大級の規模らしい。

 石部宿へ 横田の渡し跡から迂回し野洲川を渡り、JR草津線の三雲駅前へ。三雲城址への案内があるが先を急ぐ。

 石部宿手前の大沙川の堤に樹齢750年の弘法杉。弘法さんが杉の箸を食事の後、土に刺したものが後に大杉になったという伝説。

 きずなの石部宿 街道はJR草津線にほぼ並行に延びている。「きずな街道」と呼び街道を歩く訪問者へのサービスにお休み処が作られている。また、街灯の柱に道標が掲げられ道筋がよく分かる。
 この宿場は、京を旅発ち一泊目のところという。京からは38Kの距離にあり、昔の人は健脚だ。

 石部宿に小さな「お休み処」が3か所つくられ訪問者へサービス。

 間の宿に和中散本舗 石部宿場から道標の案内に沿って、右へ左へと道を進む。石部と草津との中間の「間の宿」にある旧和中散本舗前を通る。和中散は生薬を粉末にしたお薬。立派な建物は元禄初年に建てたものだという。また、ここは休憩本陣としても使われたという。

 目川の土手に道標。東海道は右へ

 草津宿へ JR草津線の手原駅前を過ぎ、目川の土手に突き当たった。道標があり、右・東海道と記されている。天井川の目川、草津川の土手に沿って進むと宿場だ。
 途中に「目川田楽・古志まや」跡の碑が目に入る。かつて街道で目川田楽が評判だったそうで、菜飯・田楽・菊の水(お酒)をセットで供した、と由来が記されていた。

 目川田楽の由来が掲げられている

 分岐点の草津宿 天井川の草津川の橋を渡って土手の坂をくだると宿場の中心地。常夜灯がここにも設置され、追分の道案内をしていた。
 すぐそばに草津宿本陣がある。平成8年に7年にわたる改修を終わり、江戸時代の本陣の雰囲気を湛えているそうだ。

 草津宿高札場跡。横町道標前に。

 草津泊り 日も陰ってきてここに泊まることにし宿を探す。

水口宿場の見付跡(江戸口)

 水口宿の街道筋に曳山をモチーフにした「からくり時計」が設置され、一日に4回時を告げるようになっている。

 水口宿の西にある横田渡し跡と横田川(野洲川)

 横田の渡し跡に大きな常夜灯。高さ10mを超える

 石部宿の手前に大沙川隧道。東海道の上を川が流れる。明治17年3月竣工、滋賀県初の道路トンネル。同様の天井川の由良谷川も道路トンネルになっている。

 石部宿のこの近辺にかつてあった問屋場や高札場を紹介するコーナーが中央交差点の一角に設けられている。

 石部宿本陣跡の石柱と金属パネル解説が付いている

 旧和中散本舗跡。石部宿と草津の間の「間の宿」

 「間の宿」にある六地蔵一里塚

 草津宿手前の目川に一里塚。側面に草津まで半里

 横町道標・常夜灯。正面に「左東海道いせ道」右面に「右金勝寺、志がらき道」と刻まれている

 追分道標・常夜灯。「右東海道いせみち 左中山道美のじ」と石の常夜灯の道標に彫られている。トンネルの上は天井川の草津川。トンネルは明治19年の完成で、それまでは旅人は徒歩でこの川を渡っていたという。

 草津宿本陣。国の史跡指定でむかしのままの建造物。一般公開されている。