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  千葉県内には約700以上も貝塚があるといいます。千葉市内の貝塚に次いで今回は、県内に広げ国指定と県指定史跡を見に行くことにしました。史跡指定された場所には案内板や標柱があり痕跡には容易に近づけます。千葉市を除くと国指定が7カ所、県指定が6ヶ所の計13カ所になります。自転車で行けるところはペダルをコギコギし、また電車(輪行)と歩きで訪ねました。

(上の写真は、野田市の山崎貝塚の貝殻群です。広い保存地の一部の地表面を削って除草し、貝殻の散乱状態が良く分かるように配慮されていました)

千葉県指定史跡の貝塚を見に行く

藤崎堀込貝塚(習志野市)【千葉県指定史跡】

藤崎堀込貝塚

畑に広がる砕けた貝殻

畑の中に大きな木が繁り目印になっている 社の裏の畑に見られる散乱する貝殻 貝層のある地形図(説明板から)

  ここ藤崎堀込貝塚へは、JRの津田沼駅から近いと分かったので、面倒な自転車はやめにして歩いてアクセスしました。住宅地のなかを緩い坂道を歩いて上って行くと子安神社が左側に現われ、右に広々とした畑が広がりました。取り残されたような大きな木と小さな鳥居が目印です。近づくと昔の山岳信仰の講で地元の方々が詣でた記念に建てた社だろうと思いますが、ここに新しい説明板(平成29年3月設置)がありました。周りの畑では砕かれた貝殻が地表面に土の中から姿を見せています。何代にもわたり畑は耕し続けられ、貝塚の貝殻が砕けたのではないか、とも思われ時間を感じます。

習志野市が本格調査

 人口密集地の周辺にこれほど広い畑があるのは驚きです。貝塚のある史跡周辺は、民間の所有地であると、注意書きがあります。ここは標高約20mの台地で、貝塚は南北110m、東西80m、西に開いた馬蹄形貝塚だそうです。
 発掘調査が最初に行われたのは昭和40年(1965)で、2回目は翌年の昭和41年(1966)に行われています。それぞれ大学で実施されましたが、その2回目の調査で馬蹄形貝塚を確認したとされています。3回目は昭和51年(1976)に習志野市による調査が行われ、貝塚は約4、500年前の縄文時代中期から約3、000年前の後期前半から後期中葉にかけ形成された、と分かりました。
 ほとんどの貝塚と同様に周辺からはいろいろな遺物が出土しています。縄文時代中期の居住跡があり、また縄文時代後期の土器や石器などが出土し、また貝層はイボキサゴが主体といいます。
 指定日:昭和42年3月7日

場所: 習志野市藤崎1丁目

野田貝塚(野田市)【千葉県指定史跡】

野田貝塚

歩道わきの木の根元に貝の破片 公園への歩道のわきに案内板地面に埋め込まれた説明板

公園前の貝塚

 野田市への輪行です。東武野田線の清水公園駅で下車し、坂の上の流山街道を渡り500mも進むと公園の入り口です。ここは標高が約15mの台地とされ、車道の中央がトンネルで通り、両脇の道が公園へ続いています。貝塚の痕跡がここにあるのだろうかと、少し探すと歩道に面し説明板が立っていました。なんだかえらくクラシックな説明板です。素材は分かりませんが漆喰の上に手書きで説明が書かれているように思え、実際はどうなのでしょう。昭和43年2月の建立と記されていす。

貝層は海から川へ

 野田貝塚は、ここの「清水公園」を経営する(株)千秋社の敷地にあり、この会社が説明板を立てたのではないでしょうか。説明板に、清水貝塚ともいう、と書かれていています。また貝殻は道路敷設の材料として敷き詰められた、とも記され大量の貝殻があったことが偲ばれます。
 この貝塚は、明治時代から知られ大正時代から昭和初期に発掘調査が行われ、貝層の幅、奥行きともに約150mの東南東に開口部をもつ馬蹄形貝塚とのことです。本格的な調査は昭和56年(1981年)以降で、野田市が実施し、縄文時代後期(約3、800年前から3、000年前)の土器や石斧なども多数出土。また貝層は、海から川へと貝の種類が変化してゆくのが見て取れる汽水のヤマトシジミとオキシジミなどの内湾のものが確認されているようです。
 指定日:昭和11年7月17日

場所: 野田市清水551-1

上座貝塚(佐倉市)【千葉県指定史跡】

上座貝塚

崖の柵の近くに散らばる貝殻 4mほどの窪みの先に電車が走る一番原児童公園に貝塚の説明板がある

公園に貝殻を探す

 京成電鉄のユーカリが丘駅へ向かいます。目的地は駅からすぐの所だと分かったので、自転車はなしです。駅の南口を出てから5分もかからない線路沿いの小さな公園が上座貝塚(じょうざ かいづか)でした。起伏のある地形の住宅街が駅の南に広がっています。そのなかの一角の線路際に貝塚がある環境がなんだかそぐわないなと思いながら見て回ると、真下に線路を見下ろす崖際に辛うじて貝殻が散らばっているのを見つけ安心しました。線路を通すため切通にし、貝塚があるこの台地が二分されたということです。昭和58年3月に設置した説明板がありました。

縄文早期の貝塚

 佐倉市の北部は印旛沼がひろがっています。この印旛沼がかつて海だった縄文時代早期末(約7,000年前)に、この台地(標高約25m)に貝塚が形成されました。貝層は直径約60mの範囲に小規模の貝層が点在しているそうです。
 発掘調査は、昭和32年(1957年)、昭和60年(1985年)と平成9年(1997年)、平成4年(1992年)にそれぞれ大学、市、県で実施されています。貝層からはカキ、ハイガイが主なものだそうで、また縄文早期の住居と炉穴の関係がわかる情報として注目された、といいます。
 市内にはこのほか間野台貝塚、三日月山貝塚、山崎貝塚など縄文時代早期の貝塚が散在しています。
 指定日 : 昭和57年4月6日

場 所:佐倉市上座374-1

西の城貝塚(香取郡神崎町)【千葉県指定史跡】

西の城貝塚

貝塚保存建屋の前に石碑貝塚保存施設内の様子密集する貝殻の断面が見られる

北に利根川を望む台地

 利根川右岸の台地にある西の城貝塚(にしのじょう かいづか)を訪ねます。JR成田線の下総神崎駅に降り、ここから約2キロ弱を歩きます。およそ1キロ強で台地への坂道で「わくわく西の城」の看板が上り口にあります。上るほど北の方に利根川があるだろうという風景が木々の間から見え、ロータリーと建物が到着地点でした。建物は青年の家として学生などのグループ合宿などに使われています。手前に鉄骨にガラスをはめ込んだ小屋風の建物が貝塚の一部を保存した施設がありました。中の様子を見たいとお願いすると、事務所の方が快くカギを開けてくださいました。

県内最古の貝層

 この西の城貝塚は縄文時代の早期(約10,000年前)の貝塚として有名で、千葉県内では最古とされています。まだ淡水が台地の周辺を占めていた当時の貝層だそうです。昭和29年と38年(1954・1963)に早稲田大学を中心に3大学の発掘調査の結果、貝種はほとんどが汽水域のヤマトシジミといいます。縄文海進がまだ台地の下まで及んでいなかったようです。
 貝層は、約20mの円形の小規模なものだそうで、淡水産のタニシ、カワニナに鹹水産のハマグリ、オキシジミも多少あるといいます。縄文時代早期の土器の編年を知る手掛かりに大きく寄与したとされ、また竪穴住居跡が当時としては最古の住居跡として注目を集めたそうです。
 指定日 昭和41年12月2日

場 所: 香取郡神崎町神崎本宿671

下小野貝塚(香取市)【千葉県指定史跡】

下小野貝塚

台地へ向かう道路は雑草と木に占領される台地上の貝塚へ入る道(右のガードレール)東関東自動車道を隔て貝塚があると思われる山

確認できず残念な結果に

 下小野貝塚(しもおの かいづか)へは、JR成田線の佐原駅から向かいます。駅前の観光案内所で貸自転車を借り、約7k先の東関東自動車道(潮来~東京・葛西)を目指しました。ママチャリの乗りにくいこと、疲れます。自動車道の高架の下へたどり着き、丘陵台地にある高速道路の側道を上り下りし、行きどまりで高架下を抜けた所がナビが示す目的地に接近した地点です。切通の左右の崖の木々が覆う薄暗い坂を50mも上がると左側にガードレールが草木の間から見えました。ここが台地へ上る道になっているようですが、鎖が張られ入れないようにされています。ガードレールが無ければ道があると分からないほど草木が占領し、元の山へ戻ろうとしていました。
 台地(標高約40m)にある貝塚は、見ること叶わず残念ながら引き返すほかありませんでした。

海産と汽水域の貝層

 この貝塚は、昭和25年(1950)の発掘調査で縄文時代中期初頭(約5、000年前)のものといわれています。急斜面に円形の約5mの東貝塚と、約2.5m×8.8mの広さを持つ西貝塚があるようです。この貝層は、主にハマグリなどの海の貝類と汽水域のヤマトシジミが占めているといいます。昭和57年(1982)の県の調査では、西側は山林のため、貝塚の存在が分らなかったということです。
 指定日 昭和53年2月28日

場 所: 香取市下小野 (個人所有地)

5カ所の貝塚説明板または標柱のある位置

訪ねた貝塚のページ

国指定史跡貝塚

・堀之内貝塚・曽谷貝塚・姥山貝塚・山崎貝塚・阿玉台貝塚・良文貝塚・山野貝塚

千葉県指定史跡貝塚

・藤崎堀込貝塚・野田貝塚・上座貝塚・西の城貝塚・下小野貝塚

その他 訪ねた貝塚

・幸田貝塚・飛の台貝塚・取掛西貝塚・木下貝層

 国指定の史跡貝塚が千葉県内に12カ所あります。
 そのうち千葉市の5ヶ所を除く7カ所は、市川市3カ所・野田市1カ所・香取市2カ所、それに2017年10月13日に袖ヶ浦市の山野貝塚が国史跡に指定されました。
 また、千葉県が指定する史跡貝塚は8個所、千葉市の2カ所を除くと6カ所あります。
 習志野市・野田市・佐倉市・香取郡神崎町・袖ヶ浦市・香取市の各1カ所です。

市町指定の史跡貝塚

 この他、各市町で史跡として貝塚を取り上げているのは、
▽鎌ヶ谷市の中沢貝塚(根郷貝塚)
▽成田市の奈土貝塚
▽松戸市の寺田貝塚
▽香取市の向油田貝塚・鴇崎貝塚
▽銚子市の余山貝塚
▽横芝町の姥山貝塚
▽茂原市の石神貝塚・下太田貝塚
▽一宮町の貝殻塚貝塚
▽南房総市の谷向貝塚
…となっています。

藤崎堀込貝塚

 JR津田沼駅から約1.6km先の藤崎堀込貝塚を目指し、メイン道路から坂になった住宅街の中を上って行きます。広々とした畑に出て、付近をうろつき貝殻の散乱状態を見ました。広い範囲に広がっています。
 帰りは、南へ下る道をたどると谷底という感じのなかに森林公園がありました。小さな池がありその東側の林は一段高く、池へ影をつくっています。近隣の憩いの場になっています。

 台地下の森林公園は憩いの場

野田貝塚

 清水公園は、子供が小さなころ連れて遊びに来たところで、フィールドアスレチックを楽しんだのを思い出します。明治時代の開園で歴史があり民間の公園です。アウトドアのレジャーと桜とツツジの名所になっています。

清水公園入口前の交差点

江戸川両岸に集中の貝塚

 野田市域貝塚分布図を見ると利根川と江戸川に挟まれた狭い範囲に集中しています。川の向うは茨城県で、一方は埼玉県ですが、江戸川の両岸に点在する約50以上の貝塚が挙げられています。この中で野田市内の貝塚で主要なものとして史跡指定され取り上げた山崎、野田の他、東金野井、内町、岩名の縄文後期・晩期の貝塚と縄文前期の飯塚、新宿があげられています。

東武野田線の清水公園駅前に「かごめの唄の碑」発祥の地とある

上座貝塚

 京成本線は、東京・上野から成田へ向かう線です。空港へのアクセスや沿線の住宅開発によって多くの乗客が利用しています。上座貝塚は、佐倉市のユーカリが丘駅の直ぐそばにあります。
 いかにもニュータウンという名称の駅名です。京成の駅に接しユーカリが丘線の駅があり6駅を回り戻ってくるというリング状に運行しています。山万という企業の運営する新交通システムです。

 京成線は台地の切通に線路

西の城貝塚と最古

 成田市と香取市の間に挟まれた神崎町は、北に利根川に面しています。JR成田線は成田駅から北上し、滑川駅で利根川に最接近し、ここから右岸に沿って銚子まで行きます。滑川駅の次が下総神崎駅で、この利根川の下流域が、東京湾の東岸と共に貝塚の集中するエリアといわれています。
 千葉県で最古とされる、この西の城貝塚と共に縄文時代の早期の貝塚として、香取市の鴇崎貝塚(ときざき かいづか)の名があげられています。
 最近、この最古の貝塚にもう一つ候補が登場しています。それは船橋市の取掛西貝塚で国指定史跡を目指しています。

 下総神崎駅のホームで

下小野貝塚

 佐原駅からママチャリをコギコギ直線状に下小野貝塚をめざします。ナビが示すのは、東関東自動車道の横に示す地点です。田んぼの中の丘陵ぎわにそってつくられた地元の生活道路や農道を迷いながら行き、そして途中には倒木で通行できない個所に遭遇します。これを大回りさせられるなどナビに翻弄されながらやっと東関東自動車道の高架下にたどり着きました。

丘陵間を高架で走る高速道路

 貝塚を見ることができなかった帰りは、県道55号線を選択しました。下総一宮の香取神宮に寄り道し、お団子を買い駅前へ戻り、観光案内所で自転車を返却しました。目的達成ができず、疲れがドッと 。

訪れる人が絶えない香取神宮