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  千葉県内には約700以上も貝塚があるといいます。千葉市内の貝塚に次いで今回は、県内に広げ国指定と県指定史跡を見に行くことにしました。史跡指定された場所には案内板や標柱があり痕跡には容易に近づけます。千葉市を除くと国指定が7カ所、県指定が6ヶ所の計13カ所になります。自転車で行けるところはペダルをコギコギし、また電車(輪行)と歩きで訪ねました。

 (上の写真は、野田市の山崎貝塚の貝殻群です。広い保存地の一部の地表面を削って除草し、貝殻の散乱状態が良く分かるように配慮されていました)

国指定史跡の貝塚を見に行く

堀之内貝塚(市川市)【国指定史跡】

堀之内貝塚記念碑

歴史と考古の両博物館

休日には家族ずれでにぎわう公園 斜面に見られる散乱する貝殻 公園内の林の散策路 考古博物館ホールのクジラ骨格

 市川市は、県内で貝塚の密度が高い地域の一つといいます。縄文の時代は、市内の低地に海が入り込み市域北部の台地上に貝塚ができていったそうで、堀之内貝塚、曽谷貝塚、姥山貝塚の3つの国指定史跡があります。これは千葉市の5ヶ所に次いで多く、このうち堀之内貝塚はそこから発掘された縄文土器とともに有名です。
 10月(2017年)の秋晴れの日に京成電鉄の国府台駅へ輪行し、ここから松戸街道を堀之内貝塚へ。台地の木々の間に建物が見え、市川市の考古博物館であることが分り細い道をたどると、歴史博物館で、覗いてみると平安時代後半から現代までの内容で展示されています。
 次いで、少し坂を上ると右手に堀之内貝塚公園、さらにその先に考古博物館があり、先土器(旧石器)時代から平安時代前半までの歩みを紹介しています。また、建物の前の庭に国指定天然記念物の木下貝層(印西市)の貝化石が置かれていました。
 ここは台地の東側で崖になり、遠く景色が望めます。引き返し公園に行き、説明板を見て記念碑を探します。

市川貝層とクジラ

 庭にあった印西市木下の貝層からの貝化石の展示で、「市川貝層」との関連を気づいたのでした。「東京外環自動車道」の工事が市内で進められ、市南部の工事現場の写真を見たのです。そこには砂層下に厚い貝層があり、貝層の最上部が約5000年前とされています。考古博物館館内にコククジラの骨格展示があり、この貝層にあったそうで、昭和33年に貝層から発見されています。

200mを越える巨大な貝塚

 堀之内貝塚の国指定史跡は昭和39年です。市内の貝塚は明治時代から多くの研究者で発掘・研究され、縄文時代晩期((約4000年~2000年前)の貝塚であることが確認されました。貝層は巨大で東西に長く225ⅿ、南北120mで、U字形の馬蹄形だそうです。貝層下からは住居跡、埋葬人骨、土器が多数出て調査されました。 

場所: 市川市北国分町2899ほか

曽谷貝塚(市川市)【国指定史跡】

曽谷貝塚

畑には貝の破片が散乱 一部を柵で囲み貝塚の広がりが見られる保存地は住民の憩いの場になっている

住宅に囲まれ見渡せる貝塚

 台地を上って行くと松戸市という表示、間違っているところを走っていた。堀之内貝塚を出て、次の曽谷貝塚を目指したが、市域が入り組みややこしい。弁天池公園という谷間へ下り、再び家と家との間の細い坂道を上ると草地が広がった。そこが曽谷貝塚で牧場のように柵が張られ「曽谷縄文まつり」の幟がはためく。この台地は標高が20mから25mあるそうで、標柱と説明板のある広場中央の十字路から全体が見わたせる。樹木でおおわれていないので、ずいぶん広く感じる。

240mという日本一の大きさ

 この広場の周囲を歩いてみると道路際に貝殻の砕けた破片が散乱し、畑にも破片が沢山ある。貝層は、東西210m、南北240mの馬蹄形といわれ、貝塚単体としては日本一大きなものだ、という。広く感じたのも当然だ。
 貝塚が形成されたのは約4000年前から3000年前の縄文時代後期。発掘調査は明治時代から何度も行われ、後期後葉の「曽谷式土器」をはじめ土偶、堀之内I式土器など多くの遺物が報告されています。
 指定日は昭和54年12月22日。この周辺には東山王貝塚、庚申貝塚、明神前貝塚、向台貝塚、イゴ塚貝塚などの名があげられ、密集地だけのことがある。

曽谷縄文まつり

 毎年、この広場で曽谷縄文まつりが開催されていて、予告の幟でした。今年(2017年)は23回を迎え10月8日(日)に縄文時代に係る品々や貝塚出土品などの展示のほか各種イベントが行われたようです。

場所: 市川市曽谷2-438-1

姥山貝塚(市川市)【国指定史跡】

姥山貝塚

木の根元近くに顔をみせた貝殻 発掘した個所と出土した遺物の説明板公園(貝塚)中央部の窪から見た周囲

整備された貝塚公園

 この日、市川市内を走り、3つ目に訪ねたのは姥山貝塚です。ここへは曽谷貝塚から下貝塚という地名を通り武蔵野線を目指しました。道路脇に姥山貝塚への案内を見て坂道をのぼり武蔵野線の上を陸橋で越え到着。標高が約23mの台地に丸い形の整備された姥山貝塚公園が貝塚保存地となっています。公園を周遊する歩道わきに石碑と案内板がありました。
 年月を感じる案内板と青々とした草に覆われた広場に貝殻の痕跡などあるのだろうかと思いながら足元を覗いて回ると、意識的に貝殻を置いたのではないか?という所があり、ただ草を抜き取り地面が露出したのか、分かりません。広場には、アチラこちらに説明板が立てられており、かつて発掘調査を行った個所とそこで出土した遺物を説明しています。

住居跡と多数の人骨

 ここ姥山貝塚が形成された時期は、縄文時代中期から後期(約5000年前から約3000年前)とされ、規模は東西約130m、南北約120mの馬蹄形の貝塚といいます。
 発掘調査は、明治時代に始まり、大正15年(1926)に貝層の下から竪穴住居跡が初めて完全な姿で発掘されました。そこに男女各2人と子ども1人の計5人の人骨があり、5人の関係・死亡原因が話題になったといいます。
 その後の調査で多量の埋葬人骨が見つかっています。これまでに発見された竪穴住居跡は39か所、人骨は143体にのぼっており、その数はわが国3番目に多いといいます。指定日は昭和42年8月17日。

場 所: 市川市柏井町1-1195ほか

山崎貝塚(野田市)【国指定史跡】

山崎貝塚

地表をおおう貝殻群貝塚公園西の入口は下ったところに流山街道で電柱に案内の標識

ひろがる貝殻群に感動

 野田市への輪行です。江戸川沿いに北から南へ走り、東側の台地へ上って行き、流山街道(県道5号)に入るというルートで山崎貝塚へ向かいました。
 道路(県道5号)で電柱に案内表示を見つけ、住宅地へ入って行くとすぐに貝塚公園の入り口でした。保存地が広々と見渡せ、石板の遊歩道が周囲の四分の三ほど敷き詰められ、四阿や案内板を整備、東と西に出入り口が設置されています。
 驚いたのは、地表面を削り、雑草を除いているので、散乱する貝殻群の広がりが良く分かることです(上の表紙の写真)。たまたま、訪れた時がよかったのでしょうが、これほどの手間をかけ、保存されているのを見て感動しました。貝塚に興味のない方も、これだけの広がりを見せる貝殻に「おぉ」と驚くでしょう。

汽水域の貝層も

 保存地は周りの住宅とフラットのように思えましたが、なだらかな窪地が西側にあり、住宅地の先は江戸川へ向かって下がっている。縄文時代中期後半から晩期中ごろ(約4000年前から3000年前)の貝塚で、半円弧が向きあった形で直径約130mの馬蹄形貝塚といいます。:昭和51年12月23日の指定で、この貝塚も明治時代にはすでに知られていたといいます。
 ここでは、海で採れるハマグリ、アサリなどの貝に加え汽水(きすい)のヤマトシジミなどの貝層もあるそうです。出土した遺物は、土器、石斧、石皿など多様で、貝層の付近では住居跡が多数みられ長い期間の生活が続いたことが分っています。。

場 所: 野田市山崎貝塚町26-4ほか

阿玉台貝塚(香取市)【国指定史跡】

阿玉台貝塚

梅林へ下る階段の周りは貝殻が散乱梅林の斜面に朽ちた貝層を保存する建屋説明板に点在する4カ所の貝塚の地形図

墓地の中の貝塚石碑

  香取市への輪行で、JR成田線小見川駅から二つの貝塚を訪ねます。阿玉台(あたまだい)貝塚と良文(よしぶみ)貝塚です。県道265号線を走り、広々とした田圃の風景から台地へ上りきると広い交差点に出ました。この台地上には、数多くの貝塚が残されているといいます。まず、その一つ阿玉台貝塚を訪ねます。
 交差点を右折する道に沿って小見川南小学校があり、その横の急坂を少し下ると説明板がありました。阿玉台貝塚の石碑への上り口です。古ぼけた木の柱は欠け、文字も読みずらい状態で「縄文の小道」と記されています。上って行くと狭い共同墓地で、その片隅に阿玉台貝塚と記した石碑がありました。
 ここは梅林になっていて散策路がありますが、訪れた時は荒れ果て、蜘蛛の糸が遊歩道を覆い、崖下へ続く木道の階段は朽ちて通行止めのロープが張られていました。

発掘縄文土器の標識に

 阿玉台貝塚は縄文時代中期(4000~5000年前)ころのものとされています。採取した貝類の殻は台地の丘陵(標高46~48m)の斜面(同30~40m)へ廃棄されました。台地を囲むように4か所(又は5ヶ所)に貝層が点在しているそうです。(案内板の地形図に書き込みをして使用)
 発掘調査は、明治27年が最初(現・東京大学)とされ、以降も昭和32年に行われるなど多くの研究者が訪れました。この貝塚から独特の装飾が施された土器が見つかり、縄文時代中期の標準とされています。「阿玉台式」と呼ばれ、関東地方の縄文土器編年の標識資料となったといいます。昭和43年、国の史跡に指定。

場 所: 香取市阿玉台1012ほか

良文貝塚(香取市)【国指定史跡】

良文貝塚

貝層施設の場所から史跡碑が望める台地上に貝塚碑10地点の貝層(案内板より)

貝層見学施設は昭和5年

 良文貝塚へは、阿玉台貝塚から東へ約1.2㎞の距離です。小学校前の交差点へ戻り、県道265号線道路わき(北側)に案内の矢印標識を見て、これに従い走ると道脇に案内の柱があります。左折すると丘陵台地のテッペンという風景がひろがり、案内板と貝層を保存する施設が目に入りました。扉の中央はガラスがはめられ、中の貝層を見るために造られた施設です。
 覗いてみますが暗くて貝の白さがかろうじて見て取れるだけです。この貝層見学施設はなんと昭和5年に保存会が設置したと記され、その古さに驚きました。地名は「海ノ内」とあり、海に近かったようです。当初は3カ所つくられ、現在はここ1カ所と。その先50mほど上に史跡碑があり、そこには「良文村貝塚」と刻されていました。

昭和5年に国の史跡に

  良文貝塚は、縄文時代後期(3000~4000年前)を中心とする貝塚で、標高50mの台地のふちと斜面に、東西約340mから南北約170mの広い範囲にわたり10地点以上の貝層が散らばる大きなものです。
 それぞれの貝層は、年代が異なっているそうで、約1200年にわたり積げられ3mを超すところもあるといいます。
 明治28年(1895)に発掘調査(現・東大)が行われ、その後も昭和2年に続く、昭和4年の調査で多くの土器などが発見され、とくに香炉形顔面付土器が出土し話題になったといいます。これは呪術的な用途で使われたと考えられ、現在は地元の豊玉姫神社で年一度公開といいます。 この良文貝塚の発掘調査には、当時、地元が熱心に協力したそうで、千葉県の貝塚で初めて昭和5年に国史跡に指定されています。 

場 所: 香取市貝塚2004ほか

山野貝塚(袖ヶ浦市)【国指定史跡】【千葉県指定史跡】

山野貝塚

畑は貝殻が散乱し道まで散らばる貝塚を横切る道路わきに説明板山野貝塚のひろがり

ほやほやの国指定史跡貝塚

  山野貝塚(さんや かいづか)は、昨年10月(2017年)に国指定の史跡貝塚になりました。この貝塚のことは、袖ヶ浦市の担当者が千葉市の縄文時代の講演会で山野貝塚を紹介し、これを聞いて知りました。国指定史跡が決まり、その1か月後に現地へ自転車で出かけました。わが家から約23kmほどあり、館山自動車道の側道に沿って南下し、市原市を抜け、袖ヶ浦市に入ります。平成通りと呼ばれる県道300号線はアップダウンがかなりのもので、坂上からは北に市原の市街地が見え、高低差がありキツイ台地です。現地について、説明板の設置などさすが国指定史跡の効果で訪れる方が多いように感じました。

東京湾東岸で最も南に

 袖ヶ浦市の熱意が国指定史跡になったと感じられる貝塚です。これまで昭和48年の第1次から7次にわたる発掘調査を実施しその成果を「総括報告書」として販売しています。東京湾東岸の大型貝塚の中で最も南側にあり、縄文時代後期から晩期(約4,000年前から2,300年前)のもので、標高約37mの台地に南北110m、東西140mの範囲に馬蹄形に広がっているそうです。貝層は、主にイボキサゴで、魚類では東京湾の内湾と外湾に棲む両方が見られようですが、外湾的な様相が強いといいます。
 国指定史跡を受け市は、今後、保存活用計画の策定や整備に向け取り組みを本格化するようです。
 県:指定日 平成21年3月17日 
 国:指定日 平成29年10月13日

場 所: 袖ケ浦市飯富(個人所有地)

7カ所の貝塚説明板または標柱のある位置

訪ねた貝塚のページ

国指定史跡貝塚

・堀之内貝塚・曽谷貝塚・姥山貝塚・山崎貝塚・阿玉台貝塚・良文貝塚・山野貝塚

千葉県指定史跡貝塚

・藤崎堀込貝塚・野田貝塚・上座貝塚・西の城貝塚・下小野貝塚・山野貝塚

その他 訪ねた貝塚

・木下貝層・幸田貝塚・飛の台貝塚・取掛西貝塚

 国指定の史跡貝塚が千葉県内に12カ所あります。
 そのうち千葉市の5ヶ所を除く7カ所は、市川市3カ所・野田市1カ所・香取市2カ所、それに2017年10月13日に袖ヶ浦市の山野貝塚が国史跡に指定されました。
 また、千葉県が指定する史跡貝塚は8個所、千葉市の2カ所を除くと6カ所あります。
 習志野市・野田市・佐倉市・香取郡神崎町・袖ヶ浦市・香取市の各1カ所です。
 *全国の貝塚の史跡指定件数は72件あるそうで、このうち数では千葉県は1位です。(2位:宮城県=6件)、3位:北海道・岩手県・沖縄県=各5件))

市町指定の史跡貝塚

 この他、千葉県内の各市町で史跡として貝塚を取り上げているのは
▽鎌ヶ谷市の中沢貝塚(根郷貝塚)
▽成田市の奈土貝塚
▽松戸市の寺田貝塚
▽香取市の向油田貝塚・鴇崎貝塚
▽銚子市の余山貝塚
▽横芝町の姥山貝塚
▽茂原市の石神貝塚・下太田貝塚
▽一宮町の貝殻塚貝塚
▽南房総市の谷向貝塚
…となっています。

堀之内貝塚

  堀之内貝塚を訪ねた日は休日でお天気が良いので、公園は小さな子供連れが三々五々と芝生に座ったり、散策して利していました。
 公園入口の説明板は平成19年3月に設置されたものでしたが、小さな案内板が史跡記念碑の近くにあり、説明を読みに行くと、昭和50年3月の設置でした。当初に設置されたものか、控えめなものだな、と感じました。

 ここの説明板は昭和50年3月に掲示されたものでした。

土器編年の制定

 縄文時代に関する講演会を聞きに行ったりパンフレットを見たりしていると、よく「堀之内Ⅰ式」などという記述があります。出土した年代を表していることは分かります。
 ここ堀之内貝塚で発掘された土器をもとに土器編年の基準が作られ、いつの時代に作られたのかが分かるようにしたのです。縄文時代後期前半(約3800年前)の標式土器として基準となっています。

曽谷貝塚

 住宅地の中に広々とひろがる曽谷貝塚の保存地は、牧場のような印象、白い柵がそうさせるようで付近の住民のオアシスだと想像できます。西側の広場では、グラウンドゴルフのプレーが行われていました。広場中央に市川市が史跡を示す柱が立てられています。

市の史跡を示す柱が立つ

土俵のある風景

 広場中央の十字路に接して土俵がありました。子どもたちの取り組みと声援が聞こえる気がします。縄文まつりなどの催しに賑わいを見せるのでしょうか。ベンチも設置されており散策と休憩が楽しめるようです。北と南と西の風景が広場中央から遠く望め、高層マンションが頭を見せていました。

土俵の先に説明板が見える

姥山貝塚

 急な坂道を自転車で上る元気がなく、押して上り台地の平地で再び走り出すと、すぐに右手に林が現われた。姥山貝塚公園の表示案内があり、入り口に自転車が数台、遊びに来た子供たちのものが置かれていた。金属の柵で乗り入れを制限をしている。駐輪場が無いのでとりあえず片隅に寄せ公園の中へ。

 公園の入り口は北西側のここと反対の東側、八幡神社側の2カ所のようだ。

発掘地点

 大正5年に貝層の下約30㎝を掘り下げると人骨などが出て、そこから本格的な発掘調査が行われた…と「A地点」と記されてた説明板にあります。
 こうした発掘個所のエピソード的なことや炉や柱を用いた竪穴住居であると分かったことなど、それぞれB・C・E・Dのローマ字で説明板がこの広場の各地点に立てられています。
 土器については阿玉台式、加曽利EI式、堀之内I式、加曽利BI式など縄文時代中期から後期にかけてのものが数多く見つかったと。
 また、この貝塚には、大正5年にスウェーデンの皇太子が来日された際に見学に訪れたとありました。興味をお持ちだったのでしょうか。

山崎貝塚

 千葉県の最北にあたり、利根川と江戸川に挟まれた野田市には、国指定と県指定の史跡貝塚があります。
 かつて縄文時代の中期にはこの辺りは、東京湾の奥の方だったようで、この奥の埼玉県にも貝塚はひろがっているといいますから随分内陸部まで海は達していたようです。
 まず「野田貝塚」(県指定史跡)を訪ね、次に山崎貝塚へと江戸川沿いに走ってきました。
 山崎貝塚は、17mの台地上にあるとされていますが、貝塚公園の東側(流山街道)から入って行くと平地に感じました。西側の江戸川方向へ台地は下っているようです。

 貝塚公園を囲むように住宅がある。東側の入り口で。

阿玉台貝塚

 香取市は、2006年(平成18年)に出来た市です。かつての佐原市と香取郡小見川町、山田町、栗源町の1市3町が合併しました。
 ここ阿玉台貝塚は、旧小見川町の内で、いまの利根川から南に6㎞ほどのところに位置しています。
 小見川町の時代に国の指定史跡になり貝塚碑にも旧町名が刻まれています。貝塚保存会ができて説明板などが設置されていますが、合併後は、地元保存会の活動に高齢化の影響が出ているのでしょうか。

交差点に阿玉台貝塚への案内板

 小学校の敷地に沿って坂道を下ると梅林への入口につづき貝塚の案内板がありました。この案内や標識のポールに年月を感じます。

坂道を下ると道路わきに阿玉台貝塚の案内板

まほろばの里

 この台地へ上って来る道路沿いにまほろばの里への案内が複数見られるので、気になって寄ることにしました。平成19年度に完成した田園空間博物館と言います。よく理解できないので、お尋ねするとこの地区の名所旧跡などを屋根のない博物館とみなして、皆さんに案内するのだと言います。館内には、小見川・山田地区の見所や古い資料・出土品を紹介し、また展示していました。

館内の展示コーナー

良文貝塚

 阿玉台貝塚から自転車を走らせると「まほろばの里」の横を坂でのぼると来迎寺がありました。落ち込んだ参道の先に山門があります。カーブする道に豊玉姫神社への鳥居、そのさき右の標識が良文貝塚へ向かう案内です。
 「良文(よしぶみ)」は、人名からきているようです。平良文(たいらのよしふみ)という平安時代中期の武将が晩年にこの地の阿玉郷に住んだから、ということのようです。

良文貝塚への案内標識

顔面付き土器

 良文貝塚から出土したもので、約3500年前の縄文時代後期の中頃だとされています。香炉形顔面付土器と呼ばれています。高さ16㎝、横幅14.3㎝、空洞。千葉県指定有形文化財になっていて豊玉姫神社に保存されているといいます。

香炉形顔面付土器

山野貝塚

 山野貝塚を訪ねるのにあたり水道施設を目印にしました。この配水場(角山配水場)の正面入口に山野貝塚の説明と周辺図があり貝塚の場所が良く分かります。ここから約150mほどの所でした。また、山野貝塚を訪れる方の駐車場として入口にスペースを取り便宜を図っています。

角山配水場の正面入り口の掲示

郷土博物館

 台地の貝塚周辺は、畑になっていますが、南へ下ると袖ヶ浦公園があり市民の憩いの場になっています。広い池(上池)があり、水鳥が群れていました。南の高台に郷土博物館があり、のぞいてみると平成29年度のトピック展として山野貝塚を取り上げ、国指定史跡となったことを掲示していました。