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 千葉市内の貝塚は、まだその痕跡を見ることが出来るのだろうか、その一部でも見られないものか、と思い立ち、市内をぶらぶらと自転車で探してみました。規模の大きな貝塚は国、県、市で史跡指定され案内板や石碑があります。それを手掛かりに探しました。しかし、その場所を探すのが大変でした。貝塚史跡のある付近の住民の皆さんは全くは無関心、標柱など場所もご存じない、という事前に想像した通りの自転車散歩でした。

貝塚の痕跡を訪ねる 1

日本一の加曾利貝塚(国指定史跡)

加曾利公園

積もり積もって2000年

 千葉市で、貝塚と言えば加曾利貝塚です。まず貝塚とは何か、を知ろうと出かけました。
 加曽利貝塚の何が日本一なのか、それは規模のようです。「最大級の貝塚」という紹介をしています。北から南へ連なる8の字にしたような形でドーナツ状(環状)の直径が約130mの北貝塚、これに170mのU字の形(馬蹄形)の南貝塚があり、この2つからなる大貝塚なのだといいます。当然その大きな形を目にすることはできませんが、実際の貝層は一部を切り取った断面を見ることができます。
 それは縄文時代の中期の約5000年前から、なんと約2000年という長い年月の間に貝殻が積りに積もったものというのですから驚きです。

縄文時代のタイムカプセル

 ここには当然、人が住み、貝などを食べまた作業をした生活の場でもあったわけで約7000年前から約2500年前までの痕跡が見られるといいます。石器や土器をはじめ古代人が食べた魚や動物の骨、植物の残骸など、さらには犬や人の骨が出ています。これらは貝の成分(カルシウム)によって守られたそうで、つまり縄文時代のタイムカプセルです。
 これは縄文時代研究の重要な価値を持ち昭和46年(1971)に国の史跡指定になっています。

博物館と観察施設

 公園内には千葉市加曾利貝塚博物館が設置されています。開館50周年(昭和41年11月開館~平成28年11月)を迎えた歴史ある博物館で、千葉県内の貝塚遺跡の紹介や貝塚とは何かを解説、発掘の歴史、出土品などが展示されています。また園内に貝の厚い層の断面を切り取った実物が観察できる施設、またこの地で発掘された竪穴住居跡を保存し観察できる建物、復原集落があります。

写真(拡大できます)の説明 (上から)▼博物館の玄関口▼加曾利公園の敷地図に紹介されている南北の貝塚(文字を書き入れた)▼貝層の断面(北貝塚の観覧施設)▼貝層の断面アップ(南貝塚の観覧施設)

荒屋敷貝塚(国指定史跡)

荒屋敷貝塚

荒屋敷貝塚の石碑。保存されている跡地 荒屋敷貝塚の説明板 説明板上の貝塚の広がり図

トンネルで貝塚を保存

 台地へと車坂を上り切ると右手に荒屋敷貝塚跡地が広がります。処どころむき出しになった地面に貝殻が散乱(写真上)しているのが見られます。貝塚を保存するために上部から掘り下げ切通しにせず、台地の下を京葉道路(自動車専用道)と側道の国道16号を貝塚トンネルで通したそうです。
 台地は標高が約31mあり、車坂(都賀車坂通)という道が佐倉街道から枝分れし、上て来ています。車坂の道を中心に若葉区の「貝塚町」が西と東に広がり、これに加え「貝塚1」「貝塚2」という町名が東にあり「貝塚」の町名が広い範囲にあります。
 町名に現われているように5つの貝塚が集中している場所です。荒屋敷貝塚の他に規模では最大ではないかといわれる草刈場貝塚があり、また台門貝塚などがあります。この状況から「貝塚町貝塚群」と呼ばれていると説明しています。
 昭和48年(1973年)以降、千葉県の3次にわたる調査で主な部分は保存されているそうです。

大型の貝塚が集中した地域

 荒屋敷貝塚は、縄文時代中期の約5,500年前から約3,500年前の後期に堆積し、その形状は直径が約180mという大きさで、南へ口を開けた環状に近い馬蹄形で、この他に北(早期)・西(前期)側にも貝塚があるといいます。草刈場貝塚(後晩期)も南側(後期)にも貝層がある、そうです。
 長い2000年間に堆積したのはハマグリ、アサリ、キサゴなどが主体で、イボキサゴが多くまた、イワシなどの魚類の骨も含まれ漁が盛んに行われてたことが伺えると説明しています。

場所:千葉市若葉区貝塚町726-1ほか

パネルの地図

☆上の位置図は荒屋敷周辺の貝塚群を説明したパネルです。市の埋蔵文化財調査センターが生涯学習センターで展示したものを写真に撮り使用しました。

月ノ木貝塚(国指定史跡)

月ノ木貝塚

道路に面し石碑と説明板がある木の根元に見られる散乱した貝殻縄文人の生活跡も数々出土していると説明

支川都川の左岸に

 上の写真は月ノ木貝塚跡地とし保存されている広場です。この北方向に都川の支流の「支川都川」(仁戸名川)が南東から北西へ流れ、左岸の標高約25mの台地に、この月ノ木貝塚があります。台地は西、北、東と三方が落ち込み道路と住宅に囲まれています。
 「支川都川」と呼ばれるこの河川は、京葉道路と千葉東金有料道路のジャンクションの所で都川本流へ入ります。都川は市の中心市街地へ流れ東京湾へ入っています。都川の支流である坂月川や、この支川都川の流れる谷沿いにある台地に貝塚が多く作られています。

南北200mの広がり

 この台地の東西150m、南北200mに貝層が広がり厚さは1.2~1.5mの馬蹄形の貝塚だそうです。中央部に広場状の凹地があり貝や遺物が無いと説明があります。
 約4,500年前の縄文時代中期の竪穴住居跡が4軒見つかり、打製石斧や磨製石斧、耳飾りなどの他、ハマグリ、キサゴ、アサリ、シオフキなどの貝類や鳥、魚、獣の骨やクジラの脊椎骨も出土しているそうです。(説明板より要約)

場所:千葉市中央区仁戸名町289-1ほか

誉田高田貝塚(史跡指定無し)

誉田高田貝塚の石碑

誉田高田貝塚の碑作業道具などを入れる小屋の脇に貝殻「高田」交差点手前に台地への登り口登り口を道路を渡り反対側から見た

都川最深部の大貝塚

 都川を河口から源流へと辿る自転車散歩を試みた時、上流域の緑区高田町という地区で畑の中を細く流れる川底に多くの貝殻を見て「なぜ」と不思議に思ったものです。
 今回、誉田高田貝塚に行き着き、貝殻の大本はここだったのだ、とうれしくなりました。やっと原因が分かったからです。しかし道路から10mほどの高さの台地で、都川は西に細々と200m先に流れています。ほとんど農業用水を流す水路の様相を呈し、都川の本流最奥部にある大貝塚と言われ、発掘の古い歴史がある所だとは思えない雰囲気です。すっかり世の中から忘れ去られた観があります。
 この場所を探すのに3度足を運び探しました。およそのことは分かっていましたが、石碑のある場所が分かりません。やっと広い畑の中にそれを示す石碑がポツンと立ってるのを見つけました。
 JR誉田駅から北へ向い東金街道へ続く道を約2㎞ほど進むと高田町の本郷バス停があります。少し先に左へ平山町へ向かう高田信号があり、その手前100mほどの右上の台地が石碑のある所になります。今でも畑の中に貝殻が散らばっているのが散見できます。

県重要遺跡百選の内の一つ

 ここは馬蹄形の東西200mに南北150mの大貝塚であったそうです。現在の地形から見るとかなり市域の内陸部といえるこの場所は、都川が重要な役目を持っていたのでしょう。縄文時代の約4,000年前から約3,000年前に当時の人々が生活していた跡も分かっているそうで、また日常の場と死者を葬る墓を作り区別した、ということで注目を集めたといいます。
 石碑を見ると「千葉県重要遺跡百選の内の一つ」昭和48年3月 碑を設営と、刻まれています。が、今は県の史跡指定にはありませんでした。

場所:千葉市緑区高田859ほか

長谷部貝塚(千葉県指定史跡)

ゴルフ場のホームページ

巡回展で掲示の長谷部貝塚パネルより袖ヶ浦カントリー倶楽部の建物貝塚の記念碑が在る14番ホール

ゴルフ場になった貝塚

 上の写真は、袖ヶ浦カンツリー倶楽部のホームページから「ちょっと寄り道」というページにある長谷部貝塚(はそべかいづか)を紹介したものです。その画像を拝借しました。この現場の写真を撮りたかったのですが、許可が得られずやむなくこうした仕儀になりました。というのもゴルフ場のコースの中に石碑があり、勝手にコースに入れないという事情があるためです。

日本人初の貝塚発掘

 この貝塚は早くから注目されたようですが、全容は不明な点が多いと専門家は述べています。「大森貝塚」で有名なモールスの影響をうけた日本人が明治12年にはじめて学問的な発掘と学界発表を行ったのがこの貝塚といいます。また、他の説明を読むと、明治14年(1881)、道路工事で貝殻が多量に視認され、最終的にその搬出地が貝塚と確認された、と日時が違うことが書かれています。発掘調査は東京大学(昭和22年・24年)・早稲田大学(昭和34年)によって行われたそうです。

記念碑的な大型の貝塚

 このゴルフ場の14番コース近くに石碑があるようで、説明文に、ここは主里台貝塚ともよばれたと、あります。縄文中期より後期の馬蹄形に堆積した貝層の規模は、東西約200m、南北約150mの大貝塚です。千葉市のホームページでは「日本考古学の記念碑的遺跡である」といわれています。
 ですが、その記念碑をも見られないようでは、どうだかなあ…?

場所: 千葉市緑区平山町1204ほか
所有者: 袖ヶ浦カンツリー倶楽部

千葉市の貝塚個所を紹介したパネル

 千葉市の開催する「ちば縄文フェスタ2017」でパネル展示された「千葉市内の縄文時代の貝塚」図です。写真に撮り掲載しました。
 千葉市内の主な貝塚の名称が挙げられ、黒丸は場所を示しています。このパネルからいかに市内に貝塚が多いかが分かります。

5カ所の貝塚説明板または標柱のある位置

上へ矢

訪ねた貝塚のページ

貝塚の痕跡1

・加曾利貝塚・荒屋敷貝塚・月ノ木貝塚・誉田高田貝塚・長谷部貝塚

貝塚の痕跡2

・犢橋貝塚・上赤塚貝塚・森台貝塚・廿五里北貝塚・東寺山貝塚・園生貝塚

貝塚の痕跡3

・花輪貝塚・六通貝塚・へたの台貝塚・有吉貝塚・滑橋貝塚・大膳野貝塚・蕨立貝塚

 東西200m又は南北200m級をトップとした大型貝塚の表が「千葉市の遺跡を歩く会」HPにあります。これを基に順に、痕跡がありそうな貝塚を探してみました。

消えて行く貝塚

  上の写真は、白く見えるのが畑の貝殻群です。私が良く散歩する道筋にあり、当初はなぜ貝殻がこんなにも散乱しいるのか、肥料として使っていたのか(かつて使用していたと、聞いていたこともあり)それとも近くに貝塚でもあるのか?と不思議に思っていました。少し興味を持つと、貝塚のアレコレが目に留まるようになり、ここが「六通貝塚」と呼ばれている地域であることがわかってきます。
 しかし、こうした貝塚の痕跡は少なくなったようで、貝塚王国の千葉でもソウソウ見られるものではないことが分ってきました。宅地開発などで消滅しているのです。

千葉の貝塚

  全国の貝塚の数は約2,700ヶ所あるそうです。この箇所数は、近くにある貝塚群を一つで数えるか、複数で数えるかによって違うようで約2400ヶ所とする数字もあります。全国の各地に「貝塚」という地名を見ます。このことからも貝塚は、結構あることがわかります。
 そのうち950ヶ所(35%)が東京湾沿岸に集中し千葉県内がとくに多く約770ヶ所(または739ヶ所)が発見されているといいます。
 そして千葉市には、加曽利貝塚を始めとする約120ヶ所の貝塚があるそうで「貝塚のまち」と呼ばれる由縁です。
 なぜ、千葉にはこんなにも多くの貝塚があるのか、という疑問がありました。

なぜ多いのか?

 そこで講演会があると聞きに行ったり、貝塚関係のパンフレットがあると読んでみました。
 東京湾は、長い縄文という時代に海が内陸へ押し寄せてきた時代(縄文海進)が大きく関係している、と分ってきました。
 この気候変動による海水面の上下動と、多量の降雨による河川からの土砂の流入で海岸線が変わってきたからだといいます。とくに東京湾の東側の千葉県は、この土砂で遠浅が出来たといいます。
 古代の人々の生活を支えるとても大切な豊な海がこうして出来たようです。そのためこの地には今から約3000年前の縄文時代は人口も多かったであろうといいます。

 千葉市生涯学習センターで開かれた大膳野南貝塚などの遺跡発表会を聞きに行く(平成23年2月)

東京湾の貝塚

 こうした縄文時代を通じて長い年月の間、東京湾が変化し続け豊かな海であったことが分り、貝塚がアチラこちらにたくさん残されました。
 東京都では、教科書にも掲載されている「大森貝塚」は、米国人のE・S・モースが明治10年(1877年)発見・発掘したとして有名です。
  神奈川県の横須賀市には、東京湾で最も古い年代の夏島貝塚があります。また千葉県は教科書にも載っている日本一の加曾利貝塚があります。
 この内湾の千葉県内に貝塚が集中していますが、館山の洲崎と富津岬間の外湾にかけても砂浜や岩場のような場所にも少々あるといいます。
 県内の市町村別に貝塚をみると千葉市が断トツに多く、密度で言えば松戸市、市川市、鎌ヶ谷市、流山市の順だそうです。
 千葉県内で古い貝塚は、香取郡神崎町の「西之城貝塚」で利根川右岸側にあり、縄文時代早期初頭の汽水域の貝種だそうです。船橋市の「取掛西貝塚」も縄文時代早期といわれています。
 また貝塚は、東京湾の他に、主なところで仙台湾、伊勢湾、有明海に貝塚が集中しているといいます。

千葉市に多いワケ

 なぜ千葉市が多いのか、それは内陸部に広範囲にわたり貝塚が出来たからだ、といいます。その大きな要因は地形にあるようで、丘陵が手の平の指のように、または舌状のように千葉市内に広がっていることによります。かつては丘陵とその間の谷津に海が上ってきて、容易に海へ出入りできる環境にあったのです。
 加曾利貝塚も東側へ下ると直ぐに坂月川があり、川を約4キロ下って海へ出たであろうといわれています。現在も市内を波打つように台地と谷津があり、自転車でうろついていると上り下りが嫌になります。

気候変動の影響

 西暦のこの2000年と同様のスパンで、古代人は貝をせっせと採り、その積もり積もった貝層が4mにも達するという所もあり、今この時に見ることが出来るということは、不思議な気持ちです。
 貝塚に関する講演を聞いていると「縄文海進」という言葉がよく出てきます。陸の方へ海が進んで行くことからそのように呼ばれ、縄文時代の長い1万年という間に気候の変動で海面が上下します。
 縄文時代の初めころは海水面が今よりマイナス40ⅿ、千葉市の西側は20ⅿ以下の遠浅であったといわれています。それから約2000年後には海面は上がってきて、現在の埼玉県まで広がり貝塚もつくられています。海水面の上昇がピークを迎えたのが約6000年前といわれています。
 これら貝塚も縄文の晩期後半(約3000年前)になると様子が変わってきて、貝塚がほとんど作られなくなったといいます。原因は寒冷化によるそうです。

貝塚の違い

 貝塚は、海の近くに出来たものと、縄文人が生活していた場所にできた貝塚の違いがあるといいます。専門家は、前者を「ハマ貝塚」、集落に堆積した後者は「ムラ貝塚」とよんでいます。ハマ貝塚は、浜辺で貝の身を取り出す場として堆積したようで貝殻以外は無いとのこと。一方ムラ貝塚は、生活の場であり長期にわたり同じところに住み続けたため生活に係る様々なモノが出土しているといいます。貝塚の形状も馬蹄形や環状のもの、また規模に違いがあります。
 私の住む近くに「神門遺跡」があり、貝塚があったようですが平地で「ハマ貝塚」に属し今では痕跡は見当たりません。

史跡指定

 千葉市は、加曾利貝塚の「特別史跡指定」をめざして平成29年2月に国へ申請しています。「特別」とは「国宝」に相当するものとのことです。
 特別遺跡は全国に61箇所あり縄文時代に限ると3カ所だけだそうで、三内丸山遺跡(青森県)・大湯環状列石(秋田県)・尖り石石器時代遺跡(長野県)になります。

 「かそりーぬ」は加曾利貝塚をPRするキャラクター。平成26年7月から29年3月までの任期で活躍。

 千葉市は「特別史跡指定」を申請していましたが、平成29年10月13日にきまりました。
 縄文時代の遺跡としては4例目で、貝塚としては初めての指定になります。

 ▽国指定史跡として5つの貝塚が指定されています。
◎加曽利貝塚(若葉区桜木8丁目、昭和45年指定)◎月ノ木貝塚(中央区仁戸名町、昭和52年指定)◎荒屋敷貝塚(若葉区貝塚町、昭和53年指定)◎犢橋貝塚(花見川区さつきが丘1丁目、昭和56年指定)◎花輪貝塚(若葉区加曽利町、平成18年指定)
 ▽県指定は◎長谷部貝塚(昭和35年)◎東寺山貝塚(昭和54年指定)
 ▽市指定は滑橋貝塚(昭和56年指定)

参考にしたホームページ等

◎千葉県教育振興財団ホームページ◎千葉市ホームページ(県・市教育委員会)◎「千葉市の遺跡を歩く会」ホームページ◎「千葉市の散歩道」◎「千葉市の文化財(コースで巡る千葉市)」ホームページ◎「千葉市の貝塚」ホームページ◎現地に設置された説明板

イボキサゴ?

 千葉市の貝塚から出る貝は80%以上が「イボキサゴ」と言われています。扁平な直径2cmに満たない巻貝です。貝の身を食べるには小さすぎます。そして破砕されたキサゴは、なぜ、と今.だに解決されていないナゾのようです。目的は何なのか、身を取り出す・だし汁・魚醤・構築材・保温材ーなどの説があるようです。
 この「イボキサゴ」が貝塚に多いことは、縄文時代の暮らしを解明する一つのキーと言われています。

イボキサゴ

おゆみ野の遺跡

 おゆみ野は、ニュータウン計画で造られた町です。造成に伴い発掘調査も同時に行われ35年を要したそうです。地区内の7つの大型貝塚を調査が出来、これらの貝層と縄文時代の集落の全様も分かってきたといわれます。
 何でも全国の大型貝塚の中でも全葉を把握しているのは千葉市の8個所だけだそうで、その半分はおゆみ野の貝塚が占める、といいます。
 ◆おゆみ野の大型貝塚
◎縄文中期:▽有吉北貝塚(3分の4調査、一部保存)▽有吉南貝塚(一部調査、大半保存)
◎後晩期:▽上赤塚貝塚(一部調査、大半保存)▽木戸作貝塚(全体調査、消滅)▽小金沢貝塚(全体調査、消滅)▽大膳野南貝塚(全体調査、消滅)▽六通貝塚(一部調査、貝層範囲内の大半現状維持)

貝塚との出会い…

 貝塚を最初に見たのは千葉へ住まいを移したことによります。市原市瀬又の貝層でした。子供たちと散歩に出た時に出合いました。谷津の山際に沿った農作業道を歩いていると崖が貝層(瀬又の貝層)になっていたのです。
 海際でもないのに貝殻が層をなしていることに疑問を持ったのでしたが、そのまま調べをすることもなく月日が過ぎて行きました。
 その後、千葉市のおゆみ野へ住居を移し再び出会ったのが「有吉貝塚」でした。ここには南北に2か所の貝塚があり、身近に目にするようになると「知りたい」となります。