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訪ねた貝塚のページ

貝塚の痕跡1

・加曾利貝塚・荒屋敷貝塚・月ノ木貝塚・誉田高田貝塚・長谷部貝塚

貝塚の痕跡2

・犢橋貝塚・上赤塚貝塚・森台貝塚・廿五里北貝塚・東寺山貝塚・園生貝塚

貝塚の痕跡3

・花輪貝塚・六通貝塚・へたの台貝塚・有吉南貝塚・大膳野貝塚・蕨立貝塚

 東西200m又は南北200m級をトップとした大型貝塚の表が「千葉市の遺跡を歩く会」HPにあります。これを基に順に、痕跡がありそうな貝塚を探してみました。

消えて行く貝塚

  上の表紙の写真は、白く見えるのが畑の貝殻群です。私が良く散歩する道筋にあり、当初はなぜ貝殻がこんなにも散乱しいるのか、肥料として使っていたのか(かつて使用していたと、聞いていたこともあり)それともこの近くに貝塚でもあるのか?と不思議に思っていました。少し興味を持つと、貝塚のアレコレが目に留まるようになり、ここが「六通貝塚」と呼ばれている地域であることもわかってきます。
 しかし、こうした貝塚の痕跡は貝塚王国の千葉でもソウソウ見られるものではないことが分ってきました。宅地開発などで消滅しているのです。

千葉の貝塚

 全国の貝塚の数は約2,700ヶ所あるそうです。この箇所数は、近くにある貝塚群を一つで数えるか、複数で数えるかによって違うようで約2400ヶ所とする数字もあります。各地に「貝塚」という地名を見ます。このことからも貝塚は、結構あることがわかります。
 そのうち950ヶ所(35%)が東京湾沿岸に集中しているといわれ、とくに千葉県内が多く約770ヶ所(700ヶ所)が発見されているといいます。
 そして千葉市には、加曽利貝塚を始めとする約120ヶ所の貝塚があるそうで「貝塚のまち」と呼ばれる由縁です。
 なぜ、千葉にはこんなにも多くの貝塚があるのか、という疑問がありました。

なぜ多いのか?

 そこで講演会があると聞きに行ったり、貝塚関係のパンフレットがあると読んでみました。東京湾は、長い縄文という時代に海が内陸へ押し寄せてきた時代(縄文海進)が大きく関係している、と分ってきました。
 この気候変動による海水面の上下動と、多量の降雨による河川からの土砂の流入で海岸線が変わってきたからだといいます。とくに東京湾の東側の千葉県は、この土砂で遠浅が出来たといいます。
 古代の人々の生活を支えるとても大切な豊な海がこうして出来ようです。そのためこの地には今から約3000年前の縄文時代は人口も多かったであろうといいます。

 千葉市生涯学習センターで開かれた大膳野南貝塚などの遺跡発表会を聞きに行く(平成23年2月 )

東京湾の貝塚

 こうした縄文時代を通じて長い年月の間、東京湾が変化し続け豊かな海と分り、貝殻がアチラこちらにたくさん残されました。
 東京都では、教科書にも掲載されている「大森貝塚」は、米国人のE・S・モースが明治10年(1877年)発見・発掘したとして有名です。
 神奈川県の横須賀市には、東京湾で最も古い年代の夏島貝塚があるといいます。千葉県にはこれも教科書にも載っている日本一の加曾利貝塚があります。
 この内湾の千葉県内に貝塚が集中していますが、館山の洲崎と富津岬間の外湾にかけても砂浜や岩場のような場所にも少々あるそうです。
 県内の市町村別に貝塚をみると千葉市が断トツに多く、密度で言えば松戸市、市川市、鎌ヶ谷市、流山市の順だそうです。
 千葉県内で古い貝塚は、香取郡神崎町の「西之城貝塚」で利根川右岸側にあり、縄文時代早期初頭の汽水域の貝種だそうです。船橋市の「取掛西貝塚」も縄文時代早期といわれています。
 また貝塚は、東京湾の他に、主なところで仙台湾、伊勢湾、有明海に貝塚が集中しているそうです。

千葉市に多いワケ

 なぜ千葉市が多いのか、それは内陸部に広範囲にわたり貝塚が出来たからといわれ、その大きな要因は地形にあるようで、丘陵が手の指のように、または舌状のように千葉市内に広がっていることによります。かつては丘陵とその間の谷津に海が上ってきて容易に海へ出入りできる環境にあったのです。
 加曾利貝塚も東側へ下りると直ぐに坂月川があり、川を約4キロ下って海へ出たであろうといわれています。
 現在も市内を波打つように台地と谷津があり、自転車でうろついていると上り下りが嫌になります。

気候変動の影響

 西暦のこの2000年と同様のスパンで、古代人は貝をせっせと採り、その積もり積もった貝層が4mにも達するという所もあり、今この時に見ることが出来るということは、不思議な気持ちです。
 貝塚に関する講演を聞いていると「縄文海進」という言葉がよく出てきます。陸の方へ海が進んで行くことからそのように呼ばれ、縄文時代の長い1万年という間に気候の変動で海面が上下します。
 縄文時代の初めころは海水面が今よりマイナス40ⅿ、千葉市の西側は20ⅿ以下の遠浅であったといわれています。それから約2000年後には海面は上がってきて、現在の埼玉県まで広がり貝塚もつくられています。海水面の上昇がピークを迎えたのが約6000年前といわれています。
 これら貝塚も縄文の晩期後半(約3000年前)になると様子が変わってきて、貝塚がほとんど作られなくなったといいます。原因は寒冷化によるそうです。

貝塚の違い

 貝塚は、海の近くに出来たものと、縄文人が生活していた場所にできた貝塚の違いがあるといいます。専門家は、前者を「ハマ貝塚」、集落に堆積した後者は「ムラ貝塚」とよんでいます。ハマ貝塚は、浜辺で貝の身を取り出す場として堆積したようで貝殻以外は無いとのこと。一方ムラ貝塚は、生活の場であり長期にわたり同じところに住み続けたため生活に係る様々なモノが出土しているといいます。貝塚の形状も馬蹄形や環状のもの、また規模に違いがあります。
 私の住む近くに「神門遺跡」があり、貝塚があったようですが平地で「ハマ貝塚」に属し今では痕跡は見当たりません。

史跡指定

 千葉市は、加曾利貝塚の「特別史跡指定」をめざして平成29年2月に国へ申請しています。「特別」とは「国宝」に相当するものとのことです。
 特別遺跡は全国に61箇所あり縄文時代に限ると3カ所だけだそうで、三内丸山遺跡(青森県)・大湯環状列石(秋田県)・尖り石石器時代遺跡(長野県)になります。

 「かそりーぬ」は加曾利貝塚をPRするキャラクター。平成26年7月から29年3月までの任期で活躍。

 千葉市は「特別史跡指定」を申請していましたが、平成29年10月13日にきまりました。
 縄文時代の遺跡としては4例目で、貝塚としては初めての指定になります。

 ▽国指定史跡として5つの貝塚が指定されています。
◎加曽利貝塚(若葉区桜木8丁目、昭和45年指定)◎月ノ木貝塚(中央区仁戸名町、昭和52年指定)◎荒屋敷貝塚(若葉区貝塚町、昭和53年指定)◎犢橋貝塚(花見川区さつきが丘1丁目、昭和56年指定)◎花輪貝塚(若葉区加曽利町、平成18年指定)
 ▽県指定は◎長谷部貝塚(昭和35年)◎東寺山貝塚(昭和54年指定)
 ▽市指定は滑橋貝塚(昭和56年指定)

参考にしたホームページ等

◎千葉県教育振興財団ホームページ◎千葉市ホームページ(県・市教育委員会)◎「千葉市の遺跡を歩く会」ホームページ◎「千葉市の散歩道」◎「千葉市の文化財(コースで巡る千葉市)」ホームページ◎「千葉市の貝塚」ホームページ◎現地に設置された説明板

イボキサゴ?

 千葉市の貝塚から出る貝は80%以上が「イボキサゴ」と言われています。扁平な直径2cmに満たない巻貝です。貝の身を食べるには小さすぎます。そして破砕されたキサゴは、なぜ、と今.だに解決されていないナゾのようです。目的は何なのか、身を取り出す・だし汁・魚醤・構築材・保温材ーなどの説があるようです。
 この「イボキサゴ」が貝塚に多いことは、縄文時代の暮らしを解明する一つのキーと言われています。

イボキサゴ

おゆみ野の遺跡

 おゆみ野は、ニュータウン計画で造られた町です。造成に伴い発掘調査も同時に行われ35年を要したそうです。地区内の7つの大型貝塚を調査が出来、これらの貝層と縄文時代の集落の全様も分かってきたといわれます。
 何でも全国の大型貝塚の中でも全葉を把握しているのは千葉市の8個所だけだそうで、その半分はおゆみ野の貝塚が占める、といいます。
 ◆おゆみ野の大型貝塚
◎縄文中期:▽有吉北貝塚(3分の4調査、一部保存)▽有吉南貝塚(一部調査、大半保存)
◎後晩期:▽上赤塚貝塚(一部調査、大半保存)▽木戸作貝塚(全体調査、消滅)▽小金沢貝塚(全体調査、消滅)▽大膳野南貝塚(全体調査、消滅)▽六通貝塚(一部調査、貝層範囲内の大半現状維持)

貝塚との出会い…

 貝塚を最初に見たのは千葉へ住まいを移したことによります。市原市瀬又の貝層でした。子供たちと散歩に出た時に出合いました。谷津の山際に沿った農作業道を歩いていると崖が貝層(瀬又の貝層)になっていたのです。
 海際でもないのに貝殻が層をなしていることに疑問を持ったのでしたが、そのまま調べをすることもなく月日が過ぎて行きました。
 その後、千葉市のおゆみ野へ住居を移し再び出会ったのが「有吉貝塚」でした。ここには南北に2か所の貝塚があり、身近に目にし「知りたい」となりました。

  千葉市内の貝塚は、まだその痕跡を見ることが出来るのだろうか。その一部でも見られないものか、と思い立ち、市内をぶらぶらと自転車で探してみました。規模の大きな貝塚は国、県、市で史跡指定され案内板や石碑があります。それを手掛かりに探しました。しかし、その場所を探すのが大変でした。貝塚史跡のある付近の住民の皆さんは全くは無関心、かつての貝塚または記念碑的な標柱の位置をご存じない、という事前に想像したのですが、少しガッカリの自転車散歩でした。

貝塚の痕跡 3

花輪貝塚(国指定史跡)

説明板

説明板は平成の時代のもの 台地の上部にあるの空き地 国有地として立ち入り禁止となっている

平成の史跡指定貝塚

 花輪貝塚の痕跡を探し台地をうろつき、二度足を運びやっと説明板にたどり着きました。まず台地の上部を何かないかと痕跡を探しましたが、立ち入りできない”それらしき”空き地、そこは「国有地」との看板です。次に台地下の周辺を探していると説明板が目に入りました。
 この貝塚は、史跡指定が新しく平成18年です。説明板も平成28年で、私が訪れるわづか9か月前に設置されたばかりです。他の貝塚史跡の説明板は風雪にさらされ、文字は読めないものが多い「昭和」の時代のモノでしたから、新鮮に感じました。

短期間に出来た貝塚か

 古くから知られていた貝塚だそうですが、平成15年度の千葉市の確認調査で全容が明らかになったといいます。
 貝塚は直径約120mの環状で、台地の中央がややくぼみ、縁辺部が高く、残された状態は良好とのことです。今から約4,000年前の縄文時代後期前半で、他の貝塚と比べ短期間に貝塚ができたそうで、貝はイボキサゴが圧倒的に多いそうです。台地縁辺から斜面部にかけ同時期の竪穴住居跡が29棟見つかっているといいます。
 この土地は出光興産が宅地開発を計画しましたが、史跡の重要性を考慮し民有地のまま国史跡指定を承諾し2006年に保存されたそうです。

場  所:千葉市若葉区加曽利町1041-1ほか
所有者:出光興産株式会社

六通貝塚(史跡指定なし)

貝殻の小山

お家の敷地北側に貝殻の小山と作業小屋 切り株を覆う貝殻の小山 北側から見た貝殻群

けや木の切り株が貝殻の小山に

 上の写真は、小川さんのお宅の敷地にある六通貝塚の痕跡です。今ここに貝のむき身を取り分け貝殻を捨てたように積み上がっています。円錐状の小山は直径が10m強はあるでしょう、高さは2m強でしょうか。
 この小山は畑の貝殻が邪魔で選別してここへ積み上げたのか、と思いお尋ねすると小川さんは、そうではない、昔のままでケヤキの大木があった、と言います。小山のてっぺんには切り株があり、横に祠が祀られています。大木の根元がこんもりと残り、切り倒された跡が貝殻の小山にみえるということのようです。旧家のお宅は広い敷地と畑が周囲にあり、北側の梅の木が並ぶ畑に貝殻が散乱する景色はページの表紙に使っています。

加曾利貝塚と同規模の大きさ

 六通貝塚は、加曽利南貝塚とほぼ同じ規模だ、と言われています。千葉県の昭和24年と29年の小発掘調査によると、東西140mで南北125m、直径は約100mの双弧状で、縄文中期末から後期さらに晩期にかけて堆積され貝層は約1mだそうです。また縄文後期後半から晩期初頭の漁労集落がみられ、どこの海岸で貝を採っていたのか、という疑問があるそうです。この場所は、支川都川(仁戸名川)上流にもあたる処で、一方、村田川へも出られる位置にあることから村田川、都川、どちらの谷へ船を出していたのか、興味ある問題だといいます。

場所:千葉市緑区おゆみ野中央7-1

へたの台貝塚(史跡指定なし)

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仁戸名小学校の敷地内に標柱があった 台地からは川を隔て大宮町側が望める畑の北に貝殻が散乱する

金網フェンスを前にした貝塚碑

 へたの台貝塚は、月の木貝塚と細い谷を隔て、東側にわずか200mほどの距離にあります。バス道の「仁戸名小入口」停に近い信号を台地へ向かって南へ進むと小学校へ上って行きます。台地に上がると送電線の鉄柱がそそり立っており、その方向へ進むと畑が広がっていました。北へ崖ふちに進むと、足元に貝殻が部分的に散らばり、崖は急で目の下はバス道です。道の北方向は、200m先に支川都川(仁戸名川)が南東から北西へ流れ、対岸に千葉東金道路が走っています。
 小学校への道へ戻り、角を曲がると道路際に標柱を見つけました。なんと学校の敷地と道路を隔てる金網の中に肩身が狭そうに佇んでいました。

谷を挟み3つの貝塚

  へたの台貝塚は、縄文中期から後期に出来たそうで台地の北側に200m(東~西)・東側に200m(北~南)・南側に110m(西~東)の3つの貝層群があり、西が開けている点在貝塚といいます。ハマグリをはじめ多種の貝殻が多く出ているそうですが、平成26年度に台地南東部を中心に行った調査では、村田川流域のデータに近い貝の種類と比率が異なったそうです。これまで住宅・道路の建設に伴う当該地の開発調査が行われ程度だとのこと。
 台地裾野の低地に道免貝塚があり半径500m内に3つの貝塚があることになります。また、この台地は、縄文中期から後期の古墳群があり、中世には城郭、へたの台砦が置かれていたと説明されています。(小学校敷地に説明板)

場所:千葉市仁戸名町270~280

有吉南貝塚(史跡指定なし)

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神社の参詣道の木の根元に貝殻が散乱 南貝塚は有吉貝塚公園として保存されている陸橋先の林は南貝塚。北貝塚は手前に北貝塚では斜面に貝殻が散見できる

住宅開発に伴い調査へ

 有吉日枝神社がある台地は、私の散歩道になっています。まだ寒いころの彼岸桜そして桜になり、秋のイチョウと変化する木々、そしてこの台地上から南に広がる丘陵の続く風景が楽しめます。神社の拝殿への参道入口に有吉貝塚の説明板と石碑があります。
 この地は、日本住宅公団(現UR都市機構)の開発したニュータウンで、おゆみ野地区とちはら台地区からなり、1977年から事業が開始されました。開発に伴ない遺跡などの発掘調査が進められ、この有吉貝塚も県により調査されました。現在は「有吉貝塚公園」として保存され、道路側の壁に発掘で分かった遺跡マップなどが掲げられています。
 ここ南貝塚と北貝塚の間を掘り下げれ、車専用の道路が造られました。その上を陸橋(日枝橋)で通していますが開発前は台地が続いていました。
 北と南の貝塚は同時期につくられ、南貝塚は北貝塚よりも大きいそうです。北貝塚は「さくら公園」となっています。

旧石器から長い時代の住居跡

 有吉南貝塚は、貝層が直径約130mの馬蹄形の貝塚といいます。また、ここから北側へ約200mに有吉北貝塚(さくら公園)があり、有吉中学校の敷地へ貝層が広がり、北斜面の貝層は4mあったそうです。
  遺跡の一部は、平成8年から平成13年にかけ県が発掘調査を行いました。
 それによると、旧石器・縄文・古墳・奈良・平安・中世と長い時代にわたって人が住んでいた痕跡があるといいます。
 なかでも貝塚が作られた縄文時代中期後半頃(約4500~4000年前)の竪穴住居跡と、生活跡から当時の人が使っていた縄文土器や斧・やじりなどの道具や装飾品、この他に人などが埋葬された跡(墓穴)も見つかっています。貝層の中にはハマグリ、アサリ、シオフキ、キサゴ、オキシジミ等、他に鳥・獣・魚の骨などもあります。(説明板から要約)

場所:千葉市緑区おゆみ野中央5-5(さくら公園:おゆみ野2-45)

滑橋貝塚(千葉市指定史跡)

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縄文小倉の森の広場 台地から坂月川の谷を隔てモノレールが見える 住宅と道路を挟み広場が続く

縄文小倉の森が保存地

 上の写真は、タウンライナーストリートと呼ばれるモノレールが頭上を走る道路の谷頭橋から北を見た景色です。下を流れる坂月川の終点(源流?)が正面になり、谷津の最奥です。
 右側の森が旧「小倉市民の森」、今「縄文小倉の森」と呼ばれ「滑橋貝塚」が保存されているところのようです。
 この谷頭橋から直ぐ後ろにあたる南側の対岸は、(坂月川右岸側の台地)加曾利貝塚があります。
 滑橋貝塚は、左岸側の台地にあり小倉台・千城台と「台」付く地名の大規模住宅開発地が後ろに広がっています。

坂月川を挟み台地から海へ

 この滑橋貝塚と加曾利貝塚は、縄文人がともに都川支流の坂月川を利用し、海へ貝を求め下って行き、成果を満載し帰ってくるという繰り返しが長い年月を経て形づくられたのでしょう。
 滑橋貝塚は、縄文時代中期後半から後期前半にわたりできたそうで、ほぼ同時期に加曾利貝塚もつくられたと言われていますから、坂月川は賑わっていたのかなと想像します。
 滑橋貝塚は直径約100mの環状に3ヶ所の地点貝塚からなる大きなものだといいます。各貝層はアサリ・シオフキ・ハマグリなどです。また昭和60年に行なわれた確認調査で、竪穴住居跡や土穴などが見つかっています。

所在地:千葉市若葉区小倉町1014ほか

大膳野南貝塚(史跡指定なし)

発掘現場

縄文集落からの人骨発掘を聞く 貝層は20から30cm(第2回見学会) 現在は跡地に大型家電の店舗

発掘調査の現地見学会に参加

 上の写真は、2010年8月の大膳野南貝塚の発掘現地での見学会(第2回)でのものです。
 千葉市の遺跡調査の発表会やロビー巡回展など自分が興味のある催し、また、住む町の事柄に関し市民講座などが開かれると、できるだけ参加してきました。地元の大膳野南貝塚の発掘調査の見学会もその一つです。
  おゆみ野は遺跡の宝庫だ、と調査発掘する方が述べています。この地区には39ヶ所の遺跡があり、大膳野南貝塚はじめ7つの大型貝塚があります。大膳野南貝塚は全体を調査で来た数少ない貝塚の一つだそうです。平成21年(2009年)7月から23年(2011年)6月まで3ヵ年行われました。また、大膳野北貝塚が北西の隣接地にあったそうですが造成により消えています。

北・南・西に3つの貝層

 この台地(50m)からの展望は、西に東京湾岸の京葉工業地が望まれます。村田川の支流を舟で下り海岸まで距離は現在は約6.8㎞の距離ですが、当時はもっと近かったでしょう。
 ここは縄文時代後期の貝塚で、大きく3つの貝層があり、北と南が双弧状で中心となり、それに西貝層があるといいます。
 貝類は村田川水系の特長だとされるイボキサゴが9割を超え、次いでハマグリが占めるといいます。集落など遺跡の時期は縄文時代前期後葉と後期前葉で、埋葬人骨は合計30体が見つかりDNAも分析も行われています。

所在地:千葉市緑区おゆみ野中央9-19ほか

 蕨立貝塚(史跡指定なし)

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千城台西商店街入口の看板が交差点に 保存林とされている坂月市民の森

読めない説明板

 蕨立貝塚は、ニュータウン計画(1965年開始)で消滅したといいます。私の「痕跡探し」の中でただ説明板がある、というだけで探してみました。
 千城台西商店街入口の立て看板が交差点に見られます。この看板のある広場に蕨立貝塚を説明する掲示板が立てられていました。送電線の支柱に添うように説明板が立ち、説明板の文字は読めなくなっています。風雨にさらされ年月が感じられます。”昭和”の設置でしょうから。

周辺に他に2箇所の貝塚

 蕨立貝塚は縄文時代中期・後期にかけて出来た直径約100mの点列環状貝塚で、 貝塚の中心の位置は、この説明板の北西約200mにあったようです。周辺には南北に他に2箇所の点列貝塚あったといいます。
 「坂月市民の森」が近くにありますが、その南に、その中の一つ坂月台貝塚があったそうです。

所在地:千葉市若葉区千城台西2-16

訪ねた6ヶ所の貝塚の説明板または標柱のある位置

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