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 千葉市内の貝塚は、まだその痕跡を見ることが出来るのだろうか。その一部でも見られないものか、と思い立ち、市内をぶらぶらと自転車で探してみました。規模の大きな貝塚は国、県、市で史跡指定され案内板や石碑があります。それを手掛かりに探しました。しかし、その場所を探すのが大変でした。貝塚史跡のある付近の住民の皆さんは全く無関心、、かつての貝塚または記念碑的な標柱の位置をご存じない、これは事前に予想していたのですが、少しガッカリの自転車散歩でした。

貝塚の痕跡 2

犢橋(こてはし)貝塚(国指定史跡)

こてはし公園

道路際にある木々の根元にわずかに貝殻 広々とした広場の東寄りに石碑があった 史跡公園として保存されている

犢橋貝塚公園へ

 千葉市域の東の緑区から犢橋貝塚公園のある花見川区は西端になります。中央区、稲毛区を抜け、県道72号線を進み宮野木ジャンクションへ向います。花見川区の京葉道路と関東東自動車道が交差するJC近くに目指す貝塚です。園生町方面から台地を下り、東関東道路の下を抜け、次の台地へ上って行き京葉道路を跨ぎ、さつきが丘団地に入ります。犢橋貝塚跡はこの団地の公園にありました。
 丘と言われているように台地の広場の東寄りに貝塚の碑が所在なげに立っていました。昭和43年のさつきが丘団地の建設で周辺の地形が変わってしまったそうで、貝塚部分を史跡公園として保存されています。

明治から知られた貝塚

 貝塚の規模は東西約200m、南北約160mであるといいます。馬蹄形で厳密には2つの弧状の貝塚が向かい合っている縄文時代後期から晩期(今から3500~2500年前)の貝塚と集落跡があったそうです。また貝の層はハマグリが主だそうで、その貝殻がないものかと地面を探しましたが、公園の境にある木々の根元にわずかに見られるだけでした。

 この貝塚の存在はは明治時代から知られていたそうで、国指定史跡です。本格的な発掘調査は昭和26年(1951)、31年(1956)、39年(1964)の3回、明治大学、東京学芸大学や千葉大学で実施されたとのことです。

 

場所:千葉市花見川区さつきが丘1

上赤塚貝塚(史跡指定なし)

上赤塚貝塚

公園内にある案内板と四阿 台地上の広場は遊歩道があり周遊できる 坂下にある公園の入口

小学生のアイデア貝塚

 京成電鉄の千原線に学園前という駅があります。ここは電車が谷間を走っていて台地側に駅があり、向いの台地上の学校へ向かう歩道橋が架かっています。
 上赤塚貝塚は、この駅の改札を出ると東にロータリーがあり、右側には結婚式場があります。この建物の裏に「おゆみ野ふれあい公園」という木々に囲まれた広場があり、ここが貝塚があるところのようです。公園には2カ所の出入り口がありますが、入り口には上の写真のように貝塚の見本とレプリカが「地層の壁」として造られています。透明のパネルに覆われた貝の層は、「六通貝塚」の貝層をはぎ取ってここへ展示したもので、これは小学生ノアイディアで作られたと説明されています。

古墳と石の枕なども出土

 広場の周辺をザーッと見て歩きましたが、貝殻のカケラは見かけられません。広場の下に埋蔵されているとのことです。遺跡は直径約80mの環状貝塚で、貝種はハマグリやイボキサゴなどが主なものといいます。
 また、ここも約4,000年前の縄文時代後期の集落跡で、貝層下からは大量の堀之内式土器が出土し、居住域は台地の南側になっていたようだといいます。貝塚の南側には約1,500年前に造られた古墳が6基残っていて台地の南西端にあった最も大きな円墳からは、彫刻文のある石の枕や大刀たちなど多くの副葬品が出土した、と説明されています。

場所:千葉市緑区おゆみ野中央1-13

森台貝塚(史跡指定なし)

森台貝塚

小弓城跡の説明板が墓地にある台地の東から西へ通る道端に標柱台地の畑に民家が散在し杉の下に碑

台地の城跡と貝塚

 ここ森台は、戦国期の南生実城(小弓城跡)があったところです。また、ここには縄文時代早期と後期の「森台貝塚」の遺跡がある所です。
 お城と貝塚があるという複合遺跡は他の所にもかなりの数があるようで、古代から住みよい所は今も変わらなく引き継がれています。城跡の説明板を見に2~3度ほど行きましたが、標柱のある場所は気づかず、どこにあるのだろうと、ウロウロしました。この森台に連なる北側に千葉市の埋蔵文化財調査センターがあります。「小弓城と森台貝塚」の標柱から歩いても5分もかからない距離です。
 また、南側には八剱神社が台地の途中にあり、御神楽(市指定文化財)で知られています。
 標高が20mに足らない台地の上から南の方向は、平らな広々とした風景が見られ、すぐ下には浜野川が西へ流れています。大昔からこの景色は遠くが見通せ眺めの良い所だったのでしょう。

台地の下に神門貝塚も

 貝塚は縄文時代早期・後期にわたる90mと110mの点列環状である、といわれています。標柱のある周辺の畑を見る限りポツポツと今も貝殻が未だ目を凝らせば見られます。石柱には、原始の集落がこの台地に痕跡があったと記されています。また、八剱神社の参道を真直ぐ南へ下った先が「神門貝塚」があった場所です。浜野川(旧名:塩田川)が目の前にあります。台地ではなく平地(海辺の作業場?)で2mの貝の層があったといいます。
 この森台貝塚と、神門貝塚ともに今では痕跡もなく姿は見ることが出来ませんでした。

場所:千葉市中央区南生実964

廿五里南貝塚(史跡指定なし)

貝塚の石碑

廿五里貝塚の碑説明板は標柱の向いにある駅西口入口交差点から正面の台地

廿五里貝塚(つうへいじ)南貝塚

 タウンライン-(モノレール)が通る沿線に貝塚がある所が何カ所かあり、貝塚訪問をやっていると、度々この沿線を走ることになります。廿五里貝塚(つうへいじ)南貝塚もその一つで、横をタウンライナーが走っています。
 この難解な名称の地は、ここが小字名であった名残で、今は史跡に残されるだけです。お隣の市原市にも「廿五里」の地名があり読みは「ついへいじ」です。
 台地の上は殿山ガーデンと呼ばれテニスコート、乗馬クラブ、陶芸が楽しめる場所です。これらに挟まれた砂利道の両サイドに説明板が南、標柱が北側にありました。上の写真は貝塚標柱と駐車場の向こうに乗馬クラブの馬場が見えます。

北貝塚も近くに存在

 台地の標高が約30m近くあるようで、眺め日当たりは快適です。 貝層は直径約100m(標柱には150mとある)の馬蹄形で、縄文時代中期から後期にわたる貝塚とされ、 昭和47年(1972年)の小調査で縄文中期の竪穴居住跡が見つかっています。また、この台地は、中世の館跡であったといいます。見晴らし良くお城を築くには最適でしょう。
 廿五里北貝塚は、ここ南貝塚から北へ約100mの所(テニスコート付近?)で、縄文中期から後期の馬蹄形の貝塚である、と説明されています。

場所:千葉市若葉区源町839ほか

東寺山貝塚(千葉県指定史跡)

東寺山公園

第一公園の下の広場に説明板鹿島神社の敷地に貝殻を散見上の広場は明るくイチョウが色づいていた

遊具に囲まれて説明板

 市内の川を自転車でたどるということをやっていた時に、葭川(よしかわ)の支流の先、調整池がある東寺山町周辺をウロウロしました。この貝塚は、そのさらに先にあり今回も上ったり下ったりし第一公園にたどり着きました。
 この公園が貝塚の場所だとのことです。公園は段違いで上(北側)の広場と窪んだ下(南側)の広場とになっています。下の広場に説明板が遊具に囲まれてありました。台地の西側は一段下にバス道路が走り、さらに一段下にみつわ台中学校とみつわ台南小学校の校庭が見渡せます。標柱の写真をホームページ上で見ていたので探しましたが見つけ出せませんでした。

神社の地面に貝殻

 貝塚の名称は「東寺山」ですが町名はみつわ台に所在します。細い旧道を挟んで鹿島神社がある方が東寺山町です。神社の方の地面に目を凝らせば貝殻がありました。ここは一段高く、公園は目の下になります。
 この貝塚は、2つの弧状の貝層が向かい合った形をしていて、その直径は130mになるといいます。本格的な発掘調査が行われていないそうですが、約5000年から3500年前の縄文時代中期から後期だろうとされています。貝層の中からイノシシ、シカの骨に加えクジラの脊柱骨などが発見されているそうです。

所在地: 千葉市若葉区みつわ台1-18

園生貝塚(史跡指定なし)

穴川駅出入り口2

モノレール穴川駅の出入り口脇に標柱林の中に向かう獣道のような踏み跡広場の空間があり説明板が立っていた

園生(そんのう)貝塚

 モノレールに沿って千葉公園から穴川へ向います。国道26号から国道16号線へ穴川十字路を北へ上って行くとモノレールの穴川駅です。駅ホームへ上る階段の入り口の横に「園生貝塚」の標柱を見つけました。なんとも哀れで、みすぼらしい感じを受けます。後ろの林が保存されたところのようです。
 この石碑の前の細い道を林に沿って進むと、下り坂の手前に林の中へ入れるスペースがあります。自転車を置いて、獣道のような踏み跡を進むとおよそ30m先の広場に説明板がありました。

厚さ2mの貝層

 園生貝塚(そんのうかいづか)は、明治の昔から知られ発掘調査で貝塚の内容が分っているといいます。それによると、縄文時代中期から晩期前半の貝層で規模は南北約135m、東西110mの馬蹄形で、幅は25~30m、貝層は2m近くもある大型の貝塚だといいます。。貝種はオキアサリ、イボキサゴ、ハマグリが主体です。
 ここも長い時間で集落が連綿と続いたようで、多くの竪穴式住居跡や土器などが出土したほか、人骨やシカ、イノシシなどの獣骨、アザラシ、クジラ、イルカなどの海の大型生物の骨が出ています。

所在地  千葉市稲毛区園生町453-1ほか

訪ねた6ヶ所の貝塚の説明板または標柱のある位置

上へ矢

訪ねた貝塚のページ

貝塚の痕跡1

・加曾利貝塚・荒屋敷貝塚・月ノ木貝塚・誉田高田貝塚・長谷部貝塚

貝塚の痕跡2

・犢橋貝塚・上赤塚貝塚・森台貝塚・廿五里北貝塚・東寺山貝塚・園生貝塚

貝塚の痕跡3

・花輪貝塚・六通貝塚・へたの台貝塚・有吉貝塚・滑橋貝塚・大膳野貝塚・蕨立貝塚

 東西200m又は南北200m級をトップとした大型貝塚の表が「千葉市の遺跡を歩く会」HPにあります。これを基に順に、痕跡がありそうな貝塚を探してみました。

消えて行く貝塚

  上の写真は、白く見えるのが畑の貝殻群です。私が良く散歩する道筋にあり、当初はなぜ貝殻がこんなにも散乱しいるのか、肥料として使っていたのか(かつて使用していたと、聞いていたこともあり)それとも近くに貝塚でもあるのか?と不思議に思っていました。少し興味を持つと、貝塚のアレコレが目に留まるようになり、ここが「六通貝塚」と呼ばれている地域であることがわかってきます。
 しかし、こうした貝塚の痕跡は少なくなったようで、貝塚王国の千葉でもソウソウ見られるものではないことが分ってきました。宅地開発などで消滅しているのです。

千葉の貝塚

  全国の貝塚の数は約2,700ヶ所あるそうです。この箇所数は、近くにある貝塚群を一つで数えるか、複数で数えるかによって違うようで約2400ヶ所とする数字もあります。全国の各地に「貝塚」という地名を見ます。このことからも貝塚は、結構あることがわかります。
 そのうち950ヶ所(35%)が東京湾沿岸に集中し千葉県内がとくに多く約770ヶ所(または739ヶ所)が発見されているといいます。
 そして千葉市には、加曽利貝塚を始めとする約120ヶ所の貝塚があるそうで「貝塚のまち」と呼ばれる由縁です。
 なぜ、千葉にはこんなにも多くの貝塚があるのか、という疑問がありました。
 実際、私の住むおゆみ野の家を中心に2km以内に6つ(消滅したものも含め・上赤塚・有吉北南・神門・木戸作・椎名崎・森台)の貝塚があります。

なぜ多いのか?

 そこで講演会があると聞きに行ったり、貝塚関係のパンフレットがあると読んでみました。
 東京湾は、長い縄文という時代に海が内陸へ押し寄せてきた時代(縄文海進)が大きく関係している、と分ってきました。
 この気候変動による海水面の上下動と、多量の降雨による河川からの土砂の流入で海岸線が変わってきたからだといいます。とくに東京湾の東側の千葉県は、この土砂で遠浅が出来たといいます。
 古代の人々の生活を支えるとても大切な豊な海がこうして出来たようです。そのためこの地には今から約3000年前の縄文時代は人口も多かったであろうといいます。

 千葉市生涯学習センターで開かれた大膳野南貝塚などの遺跡発表会を聞きに行く(平成23年2月)

東京湾の貝塚

 こうした縄文時代を通じて長い年月の間、東京湾が変化し続け豊かな海であったことが分り、貝塚がアチラこちらにたくさん残されました。
 東京都では、教科書にも掲載されている「大森貝塚」は、米国人のE・S・モースが明治10年(1877年)発見・発掘したとして有名です。
  神奈川県の横須賀市には、東京湾で最も古い年代の夏島貝塚があります。また千葉県は教科書にも載っている日本一の加曾利貝塚があります。
 この内湾の千葉県内に貝塚が集中していますが、館山の洲崎と富津岬間の外湾にかけても砂浜や岩場のような場所にも少々あるといいます。
 県内の市町村別に貝塚をみると千葉市が断トツに多く、密度で言えば松戸市、市川市、鎌ヶ谷市、流山市の順だそうです。
 千葉県内で古い貝塚は、香取郡神崎町の「西之城貝塚」で利根川右岸側にあり、縄文時代早期初頭の汽水域の貝種だそうです。船橋市の「取掛西貝塚」も縄文時代早期といわれています。
 また貝塚は、東京湾の他に、主なところで仙台湾、伊勢湾、有明海に貝塚が集中しているといいます。

千葉市に多いワケ

 それは市内の内陸部に広範囲にわたり貝塚が出来たからだ、といいます。その大きな要因は地形にあるようで、丘陵が手の指のように、または舌状のように千葉市内に広がっていることによります。かつては丘陵とその間の谷津に海が上ってきて、容易に海へ出入りできる環境にあったのです。
 加曾利貝塚も東側へ下ると直ぐに坂月川があり、川を約4キロ下って海へ出たであろうといわれています。
 現在も波打つように台地と谷津があり、自転車では上り下りが嫌になります。

気候変動の影響

 西暦のこの2000年と同様のスパンで、古代人は貝をせっせと採り、その積もり積もった貝層が4mにも達するという所もあり、今この時に見ることが出来るということは、不思議な気持ちです。
 貝塚に関する講演を聞いていると「縄文海進」という言葉がよく出てきます。陸の方へ海が進んで行くことからそのように呼ばれ、縄文時代の長い1万年という間に気候の変動で海面が上下します。
 縄文時代の初めころは海水面が今よりマイナス40ⅿ、千葉市の西側は20ⅿ以下の遠浅であったといわれています。それから約2000年後には海面は上がってきて、現在の埼玉県まで広がり貝塚もつくられています。海水面の上昇がピークを迎えたのが約6000年前といわれています。
 これら貝塚も縄文の晩期後半(約3000年前)になると様子が変わってきて、貝塚がほとんど作られなくなったそうで原因は寒冷化によるといいます。

貝塚の違い

 貝塚は、海の近くに出来たものと、縄文人が生活していた場所にできた貝塚の違いがあるといいます。専門家は、前者を「ハマ貝塚」、集落に堆積した後者は「ムラ貝塚」とよんでいます。ハマ貝塚は、浜辺で貝の身を取り出す場として堆積したようで貝殻以外は無いとのこと。一方ムラ貝塚は、生活の場であり長期にわたり同じところに住み続けたため生活に係る様々なモノが出土しているといいます。貝塚の形状も馬蹄形や環状のもの、また規模に違いがあります。
 私の住む近くに「神門遺跡」があり、貝塚があったようですが平地で「ハマ貝塚」に属し今では痕跡は見当たりません。

史跡指定

 千葉市は、加曾利貝塚の「特別史跡指定」をめざして平成29年2月に国へ申請しています。「特別」とは「国宝」に相当するものとのことです。
 特別遺跡は全国に61箇所あり縄文時代に限ると3カ所だけだそうで、三内丸山遺跡(青森県)・大湯環状列石(秋田県)・尖り石石器時代遺跡(長野県)になります。

 「かそりーぬ」は加曾利貝塚をPRするキャラクター。平成26年7月から29年3月までの任期で活躍。

 千葉市は「特別史跡指定」を申請していましたが、平成29年10月13日にきまりました。縄文時代の遺跡としては4例目で、貝塚としては初めての指定になります。

 ▽国指定史跡として5つの貝塚が指定されています。
◎加曽利貝塚(若葉区桜木8丁目、昭和45年指定)◎月ノ木貝塚(中央区仁戸名町、昭和52年指定)◎荒屋敷貝塚(若葉区貝塚町、昭和53年指定)◎犢橋貝塚(花見川区さつきが丘1丁目、昭和56年指定)◎花輪貝塚(若葉区加曽利町、平成18年指定)
 ▽県指定は◎長谷部貝塚(昭和35年)◎東寺山貝塚(昭和54年指定)
 ▽市指定は滑橋貝塚(昭和56年指定)

参考にしたホームページ等

◎千葉県教育振興財団ホームページ◎千葉市ホームページ(県・市教育委員会)◎「千葉市の遺跡を歩く会」ホームページ◎「千葉市の散歩道」◎「千葉市の文化財(コースで巡る千葉市)」ホームページ◎「千葉市の貝塚」ホームページ◎現地に設置された説明板

イボキサゴ?

 千葉市の貝塚から出る貝は80%以上が「イボキサゴ」と言われています。扁平な直径2cmに満たない巻貝です。貝の身を食べるには小さすぎます。そして破砕されたキサゴは、なぜ、と今.だに解決されていないナゾのようです。目的は何なのか、身を取り出す・だし汁・魚醤・構築材・保温材ーなどの説があるようです。この「イボキサゴ」が貝塚に多いことは、縄文時代の暮らしを解明する一つのキーと言われています。

イボキサゴ

おゆみ野の遺跡

 おゆみ野は、ニュータウン計画で造られた町です。造成に伴い発掘調査も同時に行われ35年を要したそうです。地区内の7つの大型貝塚の調査で貝層と縄文時代の集落の全様も分かってきたといわれます。
 全国の大型貝塚の中でも全葉を把握しているのは千葉市の8個所だけだそうで、その半分はおゆみ野の貝塚が占める、といいます。
 ◆おゆみ野の大型貝塚
◎縄文中期:▽有吉北貝塚(3分の4調査、一部保存)▽有吉南貝塚(一部調査、大半保存)
◎後晩期:▽上赤塚貝塚(一部調査、大半保存)▽木戸作貝塚(全体調査、消滅)▽小金沢貝塚(全体調査、消滅)▽大膳野南貝塚(全体調査、消滅)▽六通貝塚(一部調査、貝層範囲内の大半現状維持)

貝塚との出会い…

 貝塚を最初に見たのは千葉へ住まいを移したことによります。市原市瀬又の貝層でした。子供たちと散歩に出た時に出合いました。谷津の山際に沿った農作業道を歩いていると崖が貝層(瀬又の貝層)になっていたのです。
 海際でもないのに貝殻が層をなしていることに疑問を持ったのでしたが、そのまま調べをすることもなく月日が過ぎ、その後、千葉市のおゆみ野へ住居を移し再び出会ったのが「有吉貝塚」でした。ここには南北に2か所の貝塚があり、身近に目にし「知りたい」となりました。