この阿須波神社は国府の北西の位置に祀られ土地の守り神で、古代から防人らが旅の安全を祈ったといわれる。 この神社のすぐ横を古代道が通っていたという。海岸の方から市原台地へ上る官道が発掘され国分寺へ向かっている。 上総国府が置かれる前から存在したと言われる光善寺は伝説が多く麦飯石や孝標の女も使った?井戸も。柳楯神事の出発地。 この寺には室町時代の石灯籠などもある。付近から古い瓦が多量に出土し国府があった所ではないかとの説も(市原説)。 市原八幡神社は飯香岡八幡宮(八幡宿にある)の元宮の関係だとされ柳楯神事(県無形民族文化財)を氏子が執り行っている 郡本八幡神社の周辺は市原郡の郡役所と推定され、ここの地名が古甲で古国府(ふるこう)と読め(古甲・郡本説)となっている 郡本神社の基礎に大きな石が使われている。国府の大型建物の礎石を再利用かと推測。周辺からも貴重な陶器などが出土。 古甲説のある周辺を歩く。かつての古代道の側で、今は畑と住宅となっているこの周辺から基壇や区画溝が出ているという。 まぼろしの上総の国の国府は… 新しい国家つくりのスタートとなった大化の改新(645年)で、全国の行政を確立する律令制が設けられ、国郡里の制度が出来ました。全国に66の国府が置かれたといわれています。房総半島の総(ふさ)の国にも上総と下総の二ヶ所(その後安房の国)が置かれたのです。 では、その上総国府があった位置は、どの辺なのか? いま推定されている所在地はいろいろ説がある中で、市原台地南東の平地の「村上地区」と市原台地の「市原・郡本地区」の2か所に絞られています。そのほか地元で、説を唱える方もおり、大正時代に学校の先生だったトキタさんは、光善寺周辺の「市原地区」を、また、役所の位置は時代と共に「移動」したのだ、とするこれも地元の方が最近、述べています。 台地上には古代官道が走っていて、その周辺には多くの遺跡や伝承説話があるようです。ツアーに沿って訪ねてみました。 阿須波神社:ここからは目の下に館山道の高速道路が見え、崖下に住居と田んぼが広がり、遠く五井の工場群が望めます。この神社は「戌亥(いぬい)の社」として、国府などの役所や役人の住居から北西の位置に祀られ、土地や屋敷の守り神だそうです。古代の官道が、この台地へ上って来て社の横を通っています。旅の神様でもあるここで、上総の国府に出入りする人たちが旅の無事を祈ったでしょう。また境内には、防人の万葉歌を刻んだ碑が立てられ、万葉歌神社でもあるのです。 光善寺と市原説:「光善寺廃寺」の地。かつて光善寺は、上総国分寺が創建される前に既に存在していたといわれ、この地方の仏教の中心だったと考えられています。国分寺の創建瓦よりも古い瓦などが数多く出土しており、この寺近くに国衙(役所)があったのでは、と推定地の一つ(市原説)となっています。 また、この地で、県指定の無形民族文化財の「柳楯神事」の出振舞が行われます。やく2キロ先の八幡宿にある飯香岡八幡宮の秋の例大祭に先立つ神事で、室町時代から600年続いているそうです。 市原八幡神社:この神社の氏子総代が柳楯神事を執り行うそうです。柳楯を作り光善寺から市原八幡神社、阿須波神社へと回り、古代道を進んで、途中で一泊し飯香岡八幡宮へ柳楯を届け大祭が始まります。こうした関係から飯香岡八幡宮の元宮であったと、されています。 古甲・郡本説:地名は過去の事象を語ることがあり、古甲は古国府(ふるこう)と読め、古甲地区はかつて国府がここにあったのではと思わせます。高級な陶器類や大型の区画溝などが見つかっており、郡本地区の郡本八幡神社の西側に大きな溝が発見されており、大型の建物があったようで、カワラケも多く出土し、郡の役所があったのではと推定(古甲・郡本説)されているのです。 村上説:養老川の右岸にある小湊鉄道の上総村上駅を中心に広がる地域を推定地に挙げています。この地は、台地の東南の下にあり「惣社」(総社)の地名があります。総社は国府の近くに置かれていること、さらに周囲に溝がある掘立柱の建物群が見つかっていることなどから、二人の学者(石井説と須田説)がここを推定地にあげているのです。 探検会のツアーで歩いたAコース 柳楯神事とは… 光善寺廃寺跡の説明のところで、柳楯神事が出てきました。市原地区の方々が大切にされている行事で600年も続いているそうで、今年2014年は、9月13日に行われました。その神事を見にゆきました。この神事は、飯香岡八幡宮の秋季例大祭にまつわる行事で柳楯が到着して大祭が始まります。 かつての光善寺跡で出振舞の後、市原神社で拝礼、阿須波神社で旅の祈願し、奈良時代には古代道で、いまは田んぼの中の道を進む「柳楯」。運ぶのは市原地区の司家の方々。五所地区で引き渡し式が行われ一泊し翌朝、飯香岡神社へ向かう。 上へ