連綿と地域に息づく伝統と足跡…

柳楯

「柳楯神事」。台地の阿須波神社を下り、かつての古代道の田んぼ中を柳楯を運ぶ一行

探検会のツアーで、説明の中に出てくるキーワードをメモしたものをアトランダムに挙げてみました。
興味を持ったものを後にネットで検索したことも含めています。

 史跡を訪ね歩く

「王賜」銘の鉄剣:稲荷台1号墳墓記念広場には、復元した小さな墳丘があります。実際の古墳(直径27m)はすでに消滅し、そのあとに3分の1規模で復元したのがこの記念広場です。この1号墳から「王賜」銘の鉄剣が出土しました。5世紀後半ころのものだろうといわれています。古代国家が成立しつつある時期で、畿内とここ東国との結びつきを表す証しだといわれています。また、鉄剣に象嵌された文字は、漢字が使われ始めたころの最古の文章だともいわれ、史料として大変貴重な国宝級とされています。

稲荷台遺跡:ここ稲荷台地の周辺は、建物跡を示す掘立柱の穴が60数か所と区画溝が多数出たそうです。また、大量の緑釉陶器、墨書土器が出ていることから、平安時代に国司館があったところではないか、これら行政機関と役人などの住居があったと推測されています。

更級日記と作者:作者の菅原孝標女は、父(上総介)の赴任で10歳時に家族(兄・姉・義母)とともに都から上総の国へやってきました。4年間この地で過ごし、再び都へ帰る寛仁4年(1020年)9月から物語が始まり、その後の約40年間を綴ったのが更級日記です。この時代の文献が少ないためか、この日記に記載されていることが拠りどころになって、今では市原市の過去の物語り、また現代の紹介に必ず登場します。私はこの物語を読んでいないので内容は分かりませんが、あれこれお話を聞き、頂いた資料を読んだりしている内に納得しました。平安時代の稲荷台にある役人の官舎に住み、富士山を西に見て、また早く都へ帰ることができるようにと願掛けなどをしていたのかな?、などと。

神門(ごうど)5号墳:古墳時代の初期、3世紀後半のもので、東日本で最古の古墳といわれています。墳丘は直径33m、高さ5mの円形に、突起部分が長さ5.5m、幅5mある。ここには遠く東海地方や北陸から来たであろう物が出土しているそうです。

南田及び神門瓦窯跡:わが国で瓦が本格的に用いられるようになったのは587年以降、飛鳥寺の建立に百済から瓦博士・工人を招聘したことに始まるそうです。古代の瓦窯には、登り窯と平窯があり斜面の傾斜に沿ってトンネルを築き焼いたのが登り窯。上総国分寺の創建時用いたのは、神門瓦窯群の登り窯で、また建て替えや屋根の補修に平安時代は平窯(有床式)だったそうです。瓦の文様は、平城京など中央系モデルが職人とともに伝えたといわれ、鐙瓦(あぶみがわら)、宇瓦(のきがわら)の文様は、地域や時代の貴重な手がかりになるといわれます。

柳楯神事:「飯香岡八幡宮」(JR内房線八幡宿駅すぐ前)の秋季大祭にまつわる600年の伝統の神事。市原地区の司家(2軒)が柳で作った楯を交代で作り、光善寺で出振舞の後、市原八幡神社、阿須波神社を経て、古代道を通り五所地区で「柳盾御三家」へ引き渡す。ここで一泊し翌早朝、飯香岡八幡宮へ到着し大祭が始まる。「柳楯」は長さ1.4mの柳の枝25本をワラで青竹5本に結んだもの。柳は神降臨のための霊木、武神の八幡宮に楯を捧げる意味合いがあるといい、翌1月にドンドン焼きで焼かれる。

万葉集:阿須波神社は、万葉遺跡とされ、防人の歌が刻まれた万葉歌碑が境内に建つ。この神社は、奈良時代から「旅の神様」として敬われ旅立つ人々が立ち寄ったであろう、と言われる。この地で防人が詠んだ「庭中の 阿須波の神に小柴さし 吾は斎(いわ)はむ 帰り来までに」(詠み人:主帳丁若麻続部諸人、巻20)の歌が刻まれている。上総の国から多くの防人が北部九州へ出兵したが、大伴家持が編纂した万葉集に、この歌の他にも上総の国の詠み人が取り上げられているそうだ。

古代の官道:中央集権の律令制で、地方に出先機関が置かれ都と迅速に連絡を取る必要性から7本の幹線道路を設けられました。この7道は、幅員が12m前後の大きさで、平らに埋められたり削られたり一直線で造られました。近年、6mの溝が市原地先で発掘されています。古代道ではないか、と言われ、海側から阿須波神社の横を市原台地に上がったところです。かつての官道は郡本から稲荷台遺跡の横を山田橋に向っているようです。

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