国分寺と尼寺の創建

 国分僧寺と尼寺が全国に建てられるようになったのは、今からおよそ1300年近い昔の奈良時代のことです。
 741年(天平13年)、聖武天皇が全国六十余りの国に、僧寺と尼寺をそれぞれの国府にセットで作らせた国立寺院です。この国分寺を統括する寺は、奈良東大寺と法華寺としました。
 これらの寺の造営事業には20年近くかかったといわれています。なぜ六十余りも作らせたのか。この当時、蔓延した疫病や飢きんによって多くの住民が死亡(住民の3分の1ほど)したと言われ、これを畏れ悼み聖武天皇が建立を決意したとされています。
 上総国分寺および尼寺は、いま市原市役所を挟み南東と北西に700m離れた位置にあり、その跡地は国指定文化財として保存地域になってます。広い敷地内に礎石が点在しています。
 上総国分寺:かつて約63m(推定)の七重の塔がそびえ立ち、寺の広さは13.9万㎡と全国でも最大級(第3位)の規模だったそうです。発掘調査によって金堂、講堂、塔、回廊、門などの他、周辺に瓦を焼くための窯跡(神門・南田瓦窯跡)が明らかになっています。跡地では、塔の柱を支えた心礎石が見られます。かつての西門跡に基壇と柱が復元され、今ここには真言宗豊山上総国分寺が、敷地のなかの一部に建っています。江戸時代に建立された薬師堂があり屋根は茅葺きの入母屋造りが印象的です。また、仁王門も江戸時代の建築といわれ仁王像が両脇に配置されています。
 上総国分尼寺:全国の尼寺の中でも最大級の規模で、寺域は12.3万㎡、伽藍と付属の施設などの全体像が初めて調査で分かったそうです。回廊と南門などが平成4年に復元され、当時はこのような建物であったのか、と偲ぶよすがになっています。展示館があり復元模型や史跡の詳しい内容が分かります。復元は、奈良時代後半の姿を復元したものだそうで、この復元整備事業は、平成2年から9年の間行われました。
 焼失?:そして、この国分僧寺・尼寺は、850年ころに焼失したのではないか、原因は俘囚の乱が関東地方で続発し、この戦乱によって巻き込まれたようだと推測されています。また貞観地震(869年)など度々の大地震、さらに富士山の噴火による被災など自然災害の可能性もありか?と、よく分かっていないようです。平安時代にいたるまでに何度か建て替えられていることが、発掘調査で分かっています。

国分尼寺手前の金堂基壇と中門の間に金色に光る燈籠。その三方を回廊が囲む

国府がらみの神社と現代の施設

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