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敦煌をたずねてその7(9の内)


7日目     11月16日(金曜日)

 莫高窟の見学と鳴砂山へ

スナップ

トピックス

寒暖さの大きい敦煌

 朝は、マイナス5度の気温であったが、お昼には11度になる。寒さを感じない。この日は、それほどでもないが、この地の昼夜の温度差は大きく、その差は34度もあるという。
 「朝は綿入れを着て、昼は薄物をまとい、夜はストーブを囲んでスイカを食べる」という諺がある。
 ホテルの玄関の横に外気の気温が表示されていた。よく晴れて、快適だ。自転車の移動は無く、今日は観光と学校訪問のスケジュールが組まれている。
 敦煌市の南東にある世界遺産の莫高窟へバスで向かう。
 2日前に自転車で入り口に到着したが、莫高窟は、見学せずに引き上げたので、今日は入場する。
ロータリー
敦煌の中心、ロータリーに天女像
古の敦煌

 敦煌は、前漢の時代には、すでに多民族による街がつくられていた古都で、シルクロードよりもっと長い歴史がある。
 インドや中央アジア、西アジアとの交流のあとが莫高窟の壁画からも見られるように、チベットや西夏などの周辺の民族によって支配されていた歴史もある。
 漢の武帝が匈奴を追い出し、河西回廊をおさえると、敦煌の文化史のページが開かれたとされている。
市民は多民族で

 現在の敦煌の街は、清代にできたという。泊まったホテルは市街の東側であるが、漢の時代の敦煌故城の跡地が市街地の西を流れる党河の向こう岸にある。
 いまも市民は、99%が漢族である他は、回族、満州族、チベット族、カザフ族などの8つの少数民族からなっているらしい。
 敦煌の敦とは大きい、煌とは盛んな、という意味で、盛大で光り輝く街である。
東のゲート
陽関東路にかかる東のゲート
唐代に輝かしい時代

 漢の時代の敦煌は、西へ、ロプノールの楼蘭古城まで烽火台と長城を築き、シルクロードを開通させたのだ。
 その後、唐の時代の619年に沙州とし、もっとも輝かしい時代を迎えたという。
莫高窟は世界遺産

 広い駐車場からお土産屋さんの前を歩き、入場券を買う。入場料100元、特別拝観料を別に200元を払い、対岸の莫高窟へ向かう。
 世界遺産だけに世界中から観光客や研究者が訪れるためか、莫高窟周辺の石窟文物館、資料展示物館など各施設をはじめ窟の保存などは、よく整備されていることが分かる。
 日本政府の無償援助で1993年3月に陳列センターも造られ、敦煌石窟芸術の粋が集められ、発展の歴史が紹介されている。

 大泉河といわれる水量が少ない川を渡ると(西岸)立派な大牌楼の門。
 そこを左へ川沿いに少し歩くと目の前に写真でよく見る九層の建物が崖に張り付いているのが目に入る。

 窟から窟への横の移動は、約1b幅のテラス状の桟道が続いているので歩きやすいが、かなり疲れた。
 各窟の内部は撮影禁止になっている。絶壁の外観を撮るだけに。

 莫高窟は現在、40窟が公開されている。

 この発見は、莫高窟の下寺の住職、王道士(王圓?)が蔵経洞を1900年に偶然見つけたことに始まるとされている。
小牌楼
大牌楼に続き小牌楼が窟の前に

回廊の窟
窟には扉があり回廊が各窟を結ぶ
莫高窟を見学する

 本来の中国領土の最西端であったここ敦煌は、かつては中国仏教の一大霊地だったそうだ。
 はるばるインドから仏教の道であるバーミヤン、トルキスタンなどを経て伝来し、仏教信仰の熱さが、鳴砂山の断崖の南北1.6キロに700超の数の窟を造らせたのだろう。

中国三大石窟

 洛陽の龍門石窟、大同の雲岡石窟とともに中国三大石窟の一つの莫高窟は、4世紀の半ばに窟が穿ちはじめられたそうで、元の時代(11世紀)まで約1600年の長きにわたり続いたのだ。
 彩色佛の壁画や塑像が残っているのは492窟という。中国風ばかりでなくインド風などの壁画から東西の交流が見られる。
九層楼の内部には33mの大仏

 入場して正面に見た九層楼の内部には、695年に建立された33bの大仏が納められた大仏殿(第96窟)だ。
 北の大仏と言われ、他にも南大仏(弥勒菩薩・130窟)があり、臥大仏(涅槃像・148窟)もある。
 このような大きな仏様が崖を穿った内部に納められている。
 窟によっては、かつて兵士が窟内に寝起きし、食事や暖をとるため火を燃やしたため、煤で黒く汚れていたという。
 断崖の窟は、北から番号が振られ、南へ向かって数が大きくなる。

 シルクロードが最も栄えた時期に、仏教徒が絶えず援助と協力で、莫高窟の規模が大きくなったようだ。
 南宋代(1127年〜1279年)に海のシルクロードが徐々に取って代わるようになり、本来の陸のシルクロードが衰退していったという。

 この莫高窟も、明代に嘉峪関が閉鎖され、しだいに、参拝する人がいなくなったため、忘れ去られてゆく運命にあったようだ。
 その後、王道士の発見を待つまで、ねむりに付いたのだ。蔵経洞が密封されたのは、最大のなぞ、といわれ井上靖の小説「敦煌」も経典を埋める成りゆきを書いている。
第96
第96窟は30mを越える大仏を納める
信仰心で支えられた芸術

 日本語の上手な研究者の案内で、9箇所の窟と特別窟(第57窟)1箇所を午前中かけて見て回る。
 内部は明かりが引かれていないので、各自が懐中電灯を持って、壁に描かれた彩色画や塑像を見ることになる。
 さすが1600年以上の長きにわたり熱心な信仰心で支えられた仏教芸術だ。 時代を違え今、これを目にすると驚きと感動を受ける。
 この魅惑の芸術を求め数多くの専門家が一生を研究に没頭したのも頷ける。
 日本からもこれらの文物の研究のため派遣されている方がおられるということだった。また援助支援されている方も多いようだ。
 日本の大谷光瑞探検隊一行が1909年に大量の経典を持ち帰ったという。
鳴砂山で遊ぶ

 鳴砂山は、敦煌の代表的な観光地だ。市の中心からわずか6`のところにある。駱駝で遊覧ができ、勇気があればエンジン付のカイトでフライトもできる。
 粒子の細かい砂が体積したこの砂丘は、東西に約40`南北に約20`あるという。登ってみる。意外に高くてエッジの左右の傾斜がきつく、怖くなる。一歩ずつ砂に埋まりながら足を運び、上までたどり着く。
 目のしたに水を湛えた月牙泉が見え、砂漠のオアシスのイメージそのままだ。また、すぐそばに敦煌の街が見え、道路がまっすぐ街へ向かって伸びている。砂漠の中に街ができたことが実感として分かる。
 中国各地から大勢の観光客がやってくるばかりでなく、日本からも訪れる観光客が多い。
 砂丘へ上るためには、靴に砂が入るので、スパッツも有料で貸し出してくれる。
鳴砂山の砂丘
イメージ通りの大きな砂丘が目の前に
砂丘の上で
砂丘の上は意外に高く市内が目の下に
砂丘の間に月牙泉

 月牙泉は、砂丘と砂丘の谷間に染み出した水が溜まり、三日月形の池ができていることから名づけられた。
 沙井または薬泉ともいわれ古代敦煌八景の一つという。つまり2000年の昔から、この地は知られていたそうで、砂が泉を埋めないで今も水を湛えている。
 長さ200m、横が50mほどで深さが2mというが、水量が少なくなってきて1mほどではないかという。
月牙泉
鳴砂山砂丘の上から見た月牙泉(左)
月牙泉2
砂丘と砂丘の間で影になった月牙泉
職業学校を訪問

 午前中、職業専門学校で日本語を学ぶクラスを訪ねて行く。
 我われが持参した本を渡すためで、今回の旅を主催する長沢さんの発案で、敦煌をたびたび訪れる毎に生徒さんへ渡しているそうだ。
 規模がかなり大きな学校で、生徒数も多い。日本の中学高学年に当たる年齢で、20人ほどの生徒さんが我われを歓迎してくれた。
 日本語の人気も高いらしい。女性の教師は、岐阜にいて勉強したという方で、まったく日本人といっても分からないほどに上手に日本語をしゃべる。
日本語学校で
日本語を専攻する中学生を訪問
専門学校
敦煌職業専門学校の校庭で遊ぶ生徒ら
バザールに出かける

 ホテルから3分歩いた所に沙州市場がある。ここで日用品はすべて揃うだろう。野菜類、肉類、衣料品、靴、金物、雑貨がアーケードの店に続き、広場にも露店が並んでいる。
 食べ物屋さんの一角では、麺類はじめ串焼きなど、少数民族の好みに沿った食べ物が並ぶ。店頭で、お客さんの食欲を目に訴えていた。
 一方、干しぶどうが山盛りになって店頭に飾られ、いかにもシルクロードの都市らしい。オアシスと葡萄のイメージが重なる。
 干しぶどうを買って、みんなでほおばる。等級があるようで、値段の違いは、見た目では良く分からない。メンバーのほとんどが干し葡萄をお土産に購入する。
沙州市場
沙州市場は近隣から買い物客が来る
肉屋さんで
豚を目の前で解体し店先で売っている