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敦煌をたずねてその6(9の内)


6日目   11月15日(木) 

陽関遺跡〜玉門関(漢代)を訪ねる

スナップ

トピックス


廃墟になりつつある寿昌城址

 ホテルをマイクロバスで9時に出発。
 1時間ほどで到着したのは、寿昌城址といわれるところ。
 この史跡に向かう周辺は、防砂林の中にブドウ畑が少しと村落があった。村の中を過ぎ、ブドウ畑を歩く。ポプラの風除けが畑を囲み、用水路には水が豊かに流れていた。

寿昌城址
砂丘ができ始めている寿昌城址

寿昌城址

 西域南道に対して睨みを利かすため唐代(618〜907年)に造られたお城だったようで、廃墟となった城址は、砂の中に埋もれようとしていた。土壁が崩れ落ち、かつてはここに建物があっただろうと思われるが、砂の侵食によって砂丘が出来つつある。いずれは姿が見えなくなるだろう。

陽関遺跡

 再びバスで、かつての関所であった陽関址に向かう。
 資産家個人が2003年に観光客向けに造ったという陽関博物館がある城壁が見えてくる。往時は、このような建物であっただろうという復元か。
 城壁の中は、博物館になっており、楼閣のある門を入ると、西域へ軍事的な目的を持って遠征した張騫の青銅像が威容を示している。
張騫蔵
張騫像が博物館の中央で出迎え

張騫が西域の交通路を開く


 張騫は、紀元前138年に匈奴を挟み撃ちするため、武帝によって使者として派遣される。
 西へと大月氏に向かったが、捕らえられる。
 10年余の幽閉生活を過ごし、逃げ帰り、再び出兵する。
 張騫の遠征で西域への交通路が開かれ、馬や絹を介した取引でばかりでなく、仏教もこの道によって伝来したといわれる。

シルクロードを西へ

 漢の時代を再現した衣装や関所業務のあれこれが陳列されていた。建物の外に出ると、軍事的な要塞でもあったのか、投石器や騎馬の兵を弓で射る器具、古代戦車なども陳列されていた。
 当時の陽関の門址というのも石に刻まれ、ここから旅人や軍人がシルクロードを西に向かっていただろうと偲ばれる。

「西のかた陽関を…」

 唐の詩人、王維が詠ったことで有名な七言絶句、「送元二使安西」の陽関である。
 「渭城の朝雨 軽塵を?(うるほ)し
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出でなば 故人無からん」
陽関址のろし台
陽関址では、この烽火台が残るのみ

陽関址は烽火台が残るのみ

 丘陵を上ってゆくと烽火台がある。遠くからも見えていて、近づくとかなり規模が大きいことが分かる。保存のため鉄柵で囲まれ土レンガの塔には近づけない。
 その先に観光客向けの建物と馬がお客さんを待っていた。その高みからは360度、砂漠の広がりが一望できる。
 西域南道の関所として、重要な位置であることがよく分かる。
 この陽関は、南の関所で、これから我々が訪ねる漢の時代の玉門関は、北の関所だという。
 「陽」を中国古代では、山の南、水の北を言っていたという。陽関は、山の南(龍頭山)に位置するのでこう呼ばれたらしい。

玉門関遺跡へ自転車で走る

 国道から分岐し玉門関へ向かう辻がスタート。ここから約60キロを一気に自転車で走る。
 アスファルトの路面が良くない道を4、5キロほど走ると、黒い門が見えてきた。料金所らしくワイヤロープで遮断され、通行はロープを地面に下ろし、その上を車が踏んでゆく。門を抜けると真新しくアスファルトで舗装された道路になっていた。この立派な道が延々とまっすぐに伸び、地平線へ消えている。
 われわれのための専用道路という状態で、うれしさのあまり子供のようにそれぞれがヤッホーと叫び声を上げペダルを踏み込む。ゴールの玉門関(漢代)まで、すれ違った車が3台ほどか、おまけに風もほとんど無く、まったく自転車で走るには絶好の条件がそろった状況、快調に平均25〜30キロで走る。
 遠くにポツンと土塁らしきものが見え始め、近づくに従って、写真で見かけた玉門関が現れた。道を離れ砂利道を進み近づく。柵に囲まれた土壁の建物を回ってみる。土塁の壁に西門、北門だったという口がポッカリと開いている。ほんとうにゴビ砂漠の真っ只中にあることを実感する。

 玉門関の知名度が高いのは、王之渙の「涼州詞」によるといわれている。中国も日本も漢詩が古から好まれてきたから、こうした詞によって広められたのだろう。
玉門関
漢代の玉門関
観光門
ここが玉門関遺跡の正門?

漢代の玉門関


 この荒涼とした砂漠のなかを西域へ入る関所がここなのだ。また、ホータンで産出した玉石が長安まで運ばれていったのだ。出入りする人は、玉石や馬を長安へ、そして西へ向かう絹を、それぞれ検閲されたのだろう。 西域各国との往来の重要な関所であっただろうが、今は、高さ約10bの土壁が東西24b、南北に26bで囲むだけだ。北門から向かう道は、シルクロードの古道だという。

 玉門関はどこにあったのかは、歴史家の間でも見解が一致していない。はるか昔のことであり史書の記述が詳しくなかったり、食い違いがあったりして分からないのだ。
 現在、玉門関といわれるのは「小方盤城である」という。

「黄河遠く 上る白雲間 一片の孤城 万仞の山
羌笛 何ぞ須(もち)ゐん 楊柳を怨む
春風度(わた)らず 玉門関」 王之渙「涼州詞」より

略「秋風吹いて 尽まず
総て是れ 玉門の情」 李白「子夜呉歌」より

時代で変わる長城の規模

 「万里の長城」は秦の時代から漢、唐、明と、それぞれの時代で、位置や規模が違っているらしい。
 先に、嘉峪関で明の時代の長城を見て、そして漢の時代の長城を見ることが出来、渤海から続く規模の壮大さと、時代・時代の持続性に改めて、中国という国のすごさを再認識させられる。
 この漢代の長城からの眺めは、360度さえぎるもの無く、北側にわずかに水たまりのある湿地帯へ向かって大地は少し下っている。
 疏勒河があり天然の障害物になっていたのだろう。長城は、もう一つの関所である陽関へ向かって続いている。北東へやく13キロほどのところに、河倉城という漢の時代に関所を守備する兵の食料や馬の草を貯蔵する倉庫として使われた城跡があるという。

絹の道の「絹」

 絹は、紀元前5世紀の前後には、西方の国々で使われていたというから驚きだ。人間の美に対する欲望は、どんなに遠くてもそれを手に入れたいと、苦労を厭わないのだ。中国の偉大な発明とされる「絹」は、先史時代の遺跡に「繭」が発見されているという。戦国時代から後漢にかけて絹織物の技術が完成していたとされ、現在の水準に達していたのだ。
漢代の長城
漢の時代の長城、3キロほど残っている
長城とのろし台
長城に続き烽火台が残っている

漢の時代の長城


 ここ玉門関から西へ15分ほど歩くと、紀元前2世紀、漢武帝が作らせたという漢代の長城が残っており、一部を鉄柵で囲われ、保護されている。
 現在は、3キロほどの長城と5つの烽火台が残されているそうだ。
 漢代の勢力地図がここまで至っていたという事だ。
 また、烽火台も残っており、その近くに烽火を上げるための草木の材料が積み上げられた状態で化石化していた。
 烽火は、攻めてくる人数を火をつける個数で連絡したという。
 夜間に火をあげて、敵が来た、と伝えることを「烽」と、昼間に薪を燃やして煙で伝えることを「燧」というとのこと。
 本当に大ゴビの真っ只中にある。荒涼とし、物寂しさを感じるところだ。シルクロードという言葉を聴くと、ロマンティックな響きを感じるがここはさびしい。
 漢代から唐代までの長きに亘り、シルクロード西域南道への関所だった南の陽関、北の玉門関は、その址も不明なまま元の大地に帰ってゆくようだ。

 2011年6月13日の人民日報では、長城の長さは、2万1000キロを超えているという。秦や漢で計1万3000キロ以上あることが4年の調査で判明したという。明代が8851.8キロと分かっているので2万キロを超えていると。

古代中国のシルクロードに思いを馳せる

シルクロードの風を感じてみる

 今回の旅の目的地は、私にとってこの玉門関と漢代の長城を訪ねること。
 なにもないこの荒地の砂漠で周囲を見渡した。
 シルクロードの一つの通過点であるここを西へ、東へと旅立って行った、かつての人々。足跡を印したであろうその場に、今、自分も立っている。
 思いを馳せ、風を感じてみた。