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敦煌をたずねてその2(9の内)


2日目 11月11日(日曜日)

西安から嘉峪関へ

スナップ


兵馬俑博物館を見学し、嘉峪関へ飛ぶ


 朝もやの中を鐘楼や古い城壁を過ぎ,街中から高速道路をマイクロバスで飛ばし兵馬俑博物館へ。

 まさに飛ばす感があり、おそらく120キロか、目いっぱいに走っている。それをさらに上回るスピードでタクシーや一般の乗用車が追い抜いて走り去って行く。中央線をはみ出し、対向車線を走って前の車を追い抜く。
 昨夜、場内に入って走る車の傍若無人さに驚いたが、高速道路でも我先にと急いでいる。中国人は、大陸的におっとりとしているのかな、と思っていたがこんなにもセカセカとしているとは。
 朝靄なのか、スモッグなのか分からないが、見通しが悪くおそらく400mほどの先しか見えない。このスモッグが街全体を薄暗く感じさせ不健康に思える。
 1時間もかからず、兵馬俑博物館に到着。
 2010年5月19日付け報道で、1号坑の再発掘によってさらに約120体の兵馬俑が発見されたと伝えている。一部の顔が肌色で塗られていたという。
兵馬俑博物館
兵馬俑博物館の敷地は広く、ゲート前の広場

兵馬俑坑を見学


 広々とした駐車場からカートに乗って入場口へ。巨大な体育館のような建物の一号坑の内部には、一面に土造りの兵が並ぶ。そのスケールに感動。
 兵馬俑軍団は、秦の始皇帝の墓を守護するために作られ、7000体を数えるそうだ。
 始皇帝は、紀元前221年に統一を果たし万里の長城を建設した後、匈奴を平定したといわれる。
 この兵馬俑坑は、1974年の発見から今日まで34年間、整備されてきたが紀元前の文物にしては新しく感じる。別棟の立派な建物の中は、博物館として貴重な文物を展示。
 駆け足で、1号、3号館を回る。
射手武士俑
膝付き射手武士俑 弩を持つ

シルクロード河西回廊の嘉峪関へ空路向かう


 再び高速道路を西安空港へ向かう。
 昼食は、空港前のホテルのレストランでとる。
 12時40分予定が少し遅れ1時に飛び立つ。50人乗り程度のジェットで、座席が狭く窮屈な思いをする。

 ジェットは敦煌に向かうが、約2時間で嘉峪関に到着。

 ローカルな飛行場でわれわれだけが降りたのか、人気があまりない。北緯39度51分、東経98度20分の標識が空港事務所の前にあった。
 自転車を受け取る。空気が冷たくピリッとし、青空が広がり、ツアーの皆さんも西安を出てやれやれという感が伺える。

 迎えのマイクロバスで、早速、嘉峪関城へ観光に向かい、30分ほどで長城に到着する。

 私たちのサイクリングは、この明の時代と漢の時代の長城をめぐることが目的だ。シルクロードをかつて旅した古の人々の思いを追体験できればと、ペダルを約500キロほど踏む予定だ。だが、いろいろな要件が重なり、約300キロ弱の走行になった。
嘉峪関の空港
嘉峪関の空港で緯度、経度の表示。北緯39度51分3945、東経98度20分1997だ


嘉峪関を見学


 嘉峪関は、明の時代の砦跡で観光施設として整備されている。1372年(明代)に万里の長城の最西端の砦として完成したそうだ。
 16世紀の初頭に修復されたというが、観光施設として近年修復したのか、外観は高楼も立派だ。

 崩れかけている長城が砦から砂漠の中へさらに延びていている。

 門の上に三層の楼閣が東に一つと西に二つある。写真の高楼は、嘉峪関楼で、この西門高楼に「天下雄関」の額が掲げられている。
 同じ碑銘が万里の長城が渤海に到達した山海関にも掲げられているという。
嘉峪関西門
西門高楼の嘉峪関楼

嘉峪関市は、観光と工業都市に


 関城の回廊に上ると、1キロほどの先だろうか、町並みが迫り、遠く工場の煙突やビル群が手前の砂漠状の荒地の向こうに見える。
 ここ嘉峪関市は、新しい街で中国国内から移住政策で工場勤めに人がやって来ているとのこと。50年ほど前から街づくりが始まり、製鉄所が建設されたという。
 北には合黎山(ごうれいさん)などの山々が連なり、南側には5000m級の雪をいただいた山並みが見える。祁連山だ。この北と南の山々にはさまれ、東西に伸びる峡谷地帯は、幅が15km。ここに関所が設けられたのが嘉峪関だ。
 宿泊先の花苑大酒店には夕方の5時に到着。

 いよいよ自転車の組み立てをやることになる。
 これまでの運搬中に自転車は乱暴に扱われ、壊れているところも一部あるだろう、と覚悟していたが無事何事もなくホッとする。
 ただ、タイヤの空気を抜いているので、簡易ポンプを持ってきているがこれで適正な空気圧にするには骨が折れる。疲れて十分空気圧が入れられないまま止めてしまった。
長城の一部
長城は国道213号を横切る

嘉峪関関城


 嘉峪関の関城は、二重の城壁で囲まれている。東、南、北の三面が外城とされ、全長1263m。内城は西側が大きく東が小さい台形をし全長640m、城壁の高さ9m、城内は小さな建物があるのみで、ここに400の兵の駐屯所であったという面影はない。棗(ナツメ)の木がまばらに生えているだけだ。

 「万里の長城」は、2500年前、周代の末期に北方の匈奴の侵入を防ぐために建設され、その後、秦の時代、漢の時代、唐の時代、明の時代と、それぞれの時代で長城の規模や位置が異なっているそうだ。
 海側の山海関からここ嘉峪関まで長城は6350キロの距離にあるという。
 さらに西へ長城は延びており敦煌郊外に漢の時代の長城の一部が残っている。
城の内部
内城にはナツメの木が疎ら、影に雪が